のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
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その他日本でも比較的よく知られているのがAmpelmann(アンペルマン、信号男、左)である。もともと東ドイツで使用されていた歩行者用信号の人型であり、東ドイツでの交通教育などで使用された経緯もあって、存続を求める声が強く、市民運動まで組織された。現在はベルリン土産として様々な関連グッズが販売されている。その人気ゆえか、現在では西ドイツのいくつかの都市でもこのAmpelmannを用いた歩行者信号が導入されているのだという。
私の友人には旧東ドイツ出身者はいないので確認のしようがないが、今でも旧東ドイツでは、こうしたオスタルギー溢れるグッズや飲食品を持ち寄って在りし日の民主共和国を懐かしむパーティーがあちこちで開かれているという。切ないと言えば切ないし、滑稽と言えば滑稽である。おそらくOstalgieに浸る人々の胸の中にも哀愁と自嘲の思いがないまぜになっているのではないかと思う。
ドイツにはOssi(オッシー)、Wessi(ヴェッシー)という言葉がある。それぞれ「東のやつ」「西のやつ」といった程度の意味合いだが、往々にして両者のお互いに対する反感が込められているという。統一とは事実上の西側による東側の合併吸収であり、企業も行政も政治も西側が大挙して東側を占領し統治し改革していく歴史だったということもできないわけではない。そこに生じた東側の「二級市民」としての劣等感、その裏返しがOstalgieという現象の一つの根になっていることは間違いない。
すでに統一後18年の歳月が過ぎようとしているが、今でも東西ドイツの経済・社会格差は歴然としており、新聞やニュースでも東西関連の話題が取り上げられることは珍しくない。Ostalgieはドイツのもう一つの「過ぎ去らない過去」を象徴しているといえる。旧東側市民がDDRの歴史的位置づけと統一という現実とにクールに向き合えるようになるには、まだまだ時間が必要なのかもしれない。
映画『グッバイ・レーニン!』は日本でも比較的よく知られたドイツ映画であり、ご存じの方も多いはずである。旧東ベルリンの一青年の母親への愛情を、今はなき東ドイツへの郷愁と巧みに重ね合わせ、重い社会テーマを軽いテンポで描ききった名作であり、2003年のベルリン国際映画祭で最優秀ヨーロッパ映画賞を受賞した。
舞台は壁崩壊直前の東ベルリン。主人公アレックス青年の母親は民主化デモに参加し逮捕される息子の姿を見たショックで昏睡状態に陥る。熱心な社会主義者であった彼女が数ヶ月後に目を覚ました時、すでに壁は崩壊し、東ベルリンには大量の西側資本が流れ込んできていた。強烈なショックを与えると命を落とす危険があると診断された母親を守るため、アレックス青年は今なお東ドイツが平穏に存続しているよう、日用品からテレビのニュース番組まで生活のあらゆる面を偽装していく。その過程で彼や彼を取り巻く人々の東ドイツへの郷愁がさりげなく描かれていく。ざっくりと言えばこのようなストーリーである。
ドイツではこうした東ドイツへの郷愁はOstalgie(オスタルギー)と呼ばれる。Ost(オスト、東)と Nostalgie(ノスタルギー、郷愁)を組み合わせた造語である。現在でもオスタルギーを主題にした小説や映画は数多く存在するが、多くの場合、主人公は統一後に社会的地位を失った旧東ドイツ出身者であり、コミカルなタッチでその統一ドイツでの哀愁に満ちた人生が描かれるというパターンが多いようである。こうした作品の中で良く使用される東ドイツの象徴としては、有名なベルリンのテレビ塔(Fernsehturm、左)や旧東ドイツの国民車トラビー(Trabi, 右)などがあげられる。
ちなみに東ドイツの略称はDDR(Deutsche Demokratische Republik, ドイツ民主共和国)という。現在でも「DDR」と大きく文字の打ったTシャツなどがベルリンの土産物屋におかれているが、これらはいわばオスタルギー・グッズということになる。
ドイツ以外の国の現状はよくわからないが、英語版の中身をパラパラ見る限りではおそらく欧米社会ではどれも似たようなつくりだということは想像できる。 『地球の歩き方』はいわば日本人にとってのガイドブックの「標準規格」なのだが、どうもこれは世界標準―少なくとも欧米標準―とは大きくずれているように思われる。そしてそのことはこのガイドブックが実はきわめて「日本的」な存在なのではないかということを示唆している。
こちらに来てから何度か英語圏からと思しき観光客から切符の買い方について尋ねられることがあった。今から思えば彼らの持っているガイドブックには『切符の買い方』などという項目は存在していなかったのだと思う。ドイツの市内交通の料金システムの特殊さについては以前書いたことがあるが、『地球の歩き方』にはもちろん懇切丁寧な解説が付されているので、私は最初から特に迷うようなことはなかったし、聞く必要もなかった。
交通機関の利用方法からビザ手続き、果ては国際電話のかけ方からインターネット環境までを一冊に凝縮して、かゆい所に手が届く行き届いたサービス精神の体現、それがこのガイドブックだと言える。逆説的な言い方をすれば、それは旅行者の知識、情報収集能力、コミュニケーション能力を過少評価した上で、文字通りどんな素人でも、現地人と一言の会話を交わすこともなしに、観光に興じることを可能にしているわけである。「旅」という言葉の中には多少なりとも苦労や困難、その克服、そして成長、というニュアンスが込められていると思うが、日本人は高水準のガイドブックのおかげで旅に伴う煩わしさから解放され、それを限りなく純粋な「観光」として楽しむことができるようになった。
誰もが利用できる分かりやすくて懇切丁寧なサービスを提供する企業・集団と、それに依存する消費者という構図は、欧米と対比した際の日本社会の大きな特徴であると言えるだろう。この点、コンビニもツアー旅行も間接金融偏重経済も根は同じだと言ってしまってはさすがに極論にすぎるだろうか。
いずれにせよ消費者として生きる時、日本がとてつもなく快適な社会であることは間違いない。そして消費者としての快適さにじわじわとスポイルされて行った時、日本の個人は果たして健全な生活・生存能力を維持できるのかどうか。こちらのいい加減なサービス業の裏で、日々の雑事の中にも自分の頭で考え判断し行動することを要請されている欧米社会の個人の姿を思い浮かべたとき、この懸念は杞憂といって一笑に付すわけにもいかないように思えてくる。古くて新しい「日本の個人主義」論の一環である。
上にあげたのはあくまで一例で、他にも「ドイツ人のいい加減さ」を示す事例をあげればきりがない。「法律と軍隊と官僚の国」というステレオタイプを強く持っていた自分にとっては、この点は少し意外だった。どうもこの社会ではいわゆる「担当者」たちが自分の担当範囲に大きな裁量と強力な権限を持っているようで、それが仕事のクオリティーのむらを生む一つの原因になっているように感じられたのだが、それを差し引いても日本人と比較すれば「雑」であることに変わりはない。
ただ欧米の他の国、たとえばアメリカやフランス、イギリスに留学経験のある知人の話などを聞いていると、もっとひどい話はいくらでもあるようで、これらの国に比べるとドイツ人が相対的に「勤勉な国民」であることは間違いないようである。
考えてみれば我々の西洋人の「国民性」イメージの大半は、西洋において西洋の価値観の中で形作られてきた各国民のイメージが、西洋初のメディアに乗って一方的に流入してきたものであると言ってよい。ドイツ人への評価にしても、日本人が直接ドイツ人と国民レベルで交流し、その結果の蓄積として自生的なドイツ人イメージが形作られてきたわけではなく、映画やジョークを通じて西洋から流入してくる彼らのイメージを検証の機会もなくそのまま受け入れ消費してきた面が強いのではないだろうか。実際、他の欧米人に聞いてみると、ドイツ人の仕事への評価はやはり高い。そんな西洋コミュニティのイメージを何となく抱いたまま現地で生活をはじめた日本人が、初めて自分の尺度でドイツ人と交流する機会を得、イメージとのギャップに気がつくというのは、ある意味当たり前の光景である。西洋の尺度と日本の尺度は相当のズレがあるわけで、ドイツ人という国民に対するイメージにも当然ずれが生じるわけである。
こと仕事、勤勉さという点ではこのズレはかなり大きいと思う。これはまた項をあらためて書きたいと考えているが、ドイツ人はサービス残業や休日出勤などまずしないし、長期休暇は彼らの人生にとって最大の関心事である。普通のサラリーマンが企業戦士と称して過労死する日本とは価値観が土台の部分で異なるわけで、質的にも量的にも「勤勉」の意味するところが西洋と日本では全く異なるのである。結局、「ドイツ人は西洋では勤勉」ということであり、それ以上でもそれ以下でもないのだと思う。
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