今年の米Time誌「世界で最も影響力のある100人」に2人の日本人が取り上げられた。大政治家でも企業経営者でもない。いずれも今回の大震災において「現場」で尽力した人々である。
一人は津波で壊滅した南三陸市の医師、菅野武氏。津波に襲われた病院から最後の患者が救出されるまでの3日間、その傍から離れることなく職務を全うした。もう一人は南相馬市の市長、桜井勝延氏。震災直後よりYoutubeを通じて南相馬の窮状の実態を世界に向けて発信、積極的な情報開始・広報活動を展開し、地震、津波、放射能、風評被害の四重苦に苦しむ市民を救うため奮闘している。
恐らく同誌に取り上げられなければ、市井の日本人には広くその名を知られることがなかったであろう人々である。
「現場力」とは、多少泥臭く言えば、事に当たって流される血と汗と涙と知恵の総量と言ってよい。そうした労苦を厭わず与えられた責務を遂行できる、責任感に溢れる人材を如何に日頃から育て確保しておけるか否かが、その組織の「現場力」を左右する。日本が世界に誇る「現場力」は、そうした素朴な公共心に満ちた数多くの名もなき人々の手により支えられている。
そう、多くの場合彼らは「名もなき」人々であり、匿名の存在なのである。日本人には「現場力」と同時に「現場の美学」がある。その中には殊更に功名を言揚げしないことも含まれる。そのせいか、この社会では自ら自分の活躍を売り込むような人間は少ないし、そういう行為は社会的にも高くは評価されない。そうした「名もなき」人々が「名を持つ」のは、周囲の環境や偶然に左右されることが多い。たまたま新聞記者の目に止まった、影響力ある要人の目に止まった、噂が広まりやすい地域社会だった、人の目につく場所だった、そうした要素である。我々が見聞きできる英雄譚の影には、決して日の目を見ることなく朽ちていく無数の物語があるはずである。
しかし、誰が社会的に評価され正当に報われるべきかという問題を、単に偶然に委ねてしまうような在り方は、組織管理の面からも、そして社会の在り方としても適切ではない。少なくともでき得る限り多くの人々の現場の物語を明らかにすべく意を用いる必要があるのではないか。そうでなければ、「フェアではない」のである。
福島第一原発事故への対応について振り返って見るに、私の知る限り、日の当たる場所で自らの功と名について広く認知してもらう栄誉を得たのは東京消防庁の3隊員だけである。その他全国自治体から救援に駆け付けた消防職員、放水活動の先鞭を付けた警視庁機動隊、世界に日本政府の覚悟を示した自衛隊ヘリ放水要員、及び地上放水要員は、記者会見の機会はもちろん、名前すら公になっていないのではないかと思う。
何より、今この瞬間にも劣悪な環境で原子炉安定に奮闘する何百人もの労働者たち個々人の素顔についてはほとんど語られることすらない。彼らは国際的には今や「Fukushima 50」として「Heroes」と賞賛されているが、我々はその顔も名前も素性も知らない。ウェブや週刊誌で匿名の本音が漏れ聞こえている程度に過ぎない。
福島原発以外にも、多くの人々が現場で尽力し、文字通り命をかけて責務を遂行してきている。津波避難誘導のため防災放送を続けて逃げ遅れ、行方不明となった25歳の南三陸町職員、遠藤未希さん。同じく市民に警報を伝える中車ごと津波に飲まれ、遺体で発見された31歳の岩沼市職員、多田裕一さん。同じく津波からの避難誘導の最中に命を落としたと思われる30名以上の警察官達。中国人留学生を先に避難させ命を落とした女川町・佐藤水産の佐藤充専務。被災地の救援活動の激務で命を落としたとされる40歳代の一等陸曹、50歳代の陸曹長。津波にさらわれた数多の消防士、そして市井の消防団員達。放射線の恐怖に曝されながら十八万人近い住民の避難に奮闘した福島県警職員。ここに挙げた人々は、数多の無名の「現場の神々」たちの、ごく一握りに過ぎないはずである。
昨年のチリ・サンホセ鉱山落盤事故の際、日本のマスコミは欧米メディアの報道にのっかり、閉じ込められていた鉱員一人ひとりの名前と顔写真を取り上げる手厚い報道を連日繰り返していた。しかし今回の大震災において、文字通り命を賭して現場で闘っている人々、闘った人々の栄誉は、彼らと同程度に満たされていると言えるのだろうか。
これまでの報道や政府要人の発言を見る限り、どうしても被災者の困難・苦境、その悲劇が中心に据えられている。それが最重要課題であることを否定するつもりはない。しかし、自らの生活、時には命さえも犠牲にし、避難所で暮らしている数多くの人々を救うために献身している人々に対して、現状それに相応しい関心が払われているようには、どうしても自分には思えないのである。冒頭のTime紙の例もあるように、この点ではむしろ欧米メディアの方が突っ込んだ報道をしているのではないかとすら思わせることもある。
国や企業、故郷や隣人、自己の利害を超えて、他者のため、公共性のために献身する人々が、公平に評価され、正当に報われ、相応しい名誉を与えられなくてはならない。現時点では色々と困難な事情があるのかもしれないが、多少時間がかかっても構わない。そうした人々の物語の一つ一つを丹念に拾い集め、整理し、記録し、その功績を後世まで我々日本人共通の記憶として留め置く、その作業がなおざりにされるようなことがあってはならない。それはもちろん彼ら彼女らを正当に評価し称えるためであるが、同時に、その物語は如何なる言葉や行為よりも強く我々の胸を打ち、今日生かされていることへの感謝と明日を築くための責務とを湧きあがらせる。そしてその思いこそが、組織の中に、そして国家社会の中に、次なる現場の担い手たちを創出していくのである。
メディアがやらない、できないならば、政府が責任をもって彼ら彼女らの名誉を顕彰するべきだろう。危機に際して人間性を失わず、進んで自らを犠牲にして義務を遂行できる人々は、文字通り国家社会の柱石であり、この国の復興のための希望である。そうした人々やその遺族達が万が一、誰に知られることもなく、不本意な評価のまま、虚しさ、諦念、不公平感に苛まれることになる社会ならば、この国の誇る「現場力」は確実に摩耗し、時とともにぼろぼろに崩れ去って行くことだろう。これは単に「現場力」のみにかかる問題ではない。問われているのは、国家社会としての道徳性そのものなのである。
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