のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
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折しも現在ミュンヘンで世界最大のビール祭りオクトーバーフェストが開催されている。このイベントは19世紀初頭、バイエルン王国(かつてミュンヘンに首都を置いていた南ドイツの王国)の皇太子ルートヴィヒ1世と皇太子妃テレジアの成婚を祝して催されたお祭りが起源とされ、当初は必ずしも「ビール」にまつわるお祭りというわけではなかった。
なぜオクトーバーフェストがビールのお祭りとなったかについては諸説があるが、一つには10月という時期がミュンヘンのビール醸造にとって一つの節目に当たる時期であったからと言われている。ミュンヘンのビール醸造は秋から冬にかけて行われており、ちょうど10月あたりから次年度に向けたビール醸造を開始せねばならなかった。夏の間に消費しきれずに残っていたビールをこの時期に一気に飲み干してしまうことで樽をカラにし、次年度に使い回すという民間醸造所の習慣が皇太子ご成婚の祝賀祭と結びつき、次第に「ビールのお祭り」としてのオクトーバーフェストが形作られてきたようである。
ミュンヘンはドイツの中でも「ビールの都」としてのイメージが強い。元来この地域はむしろビールよりもワイン志向であったのだが、三十年戦争の惨禍の中でワイン畑が荒廃してしまったのを契機に、次第にビール志向が高まって行った。
ビールと言って日本人がイメージするのは「黄金色の切れ味のある咽喉越しのすっきりとした飲み心地のお酒」といったところだと思うが、実はこの意味でのビールが登場したのは19世紀半ばの話で意外と歴史は浅い。こうしたビールは一般に「ピルスナー」というカテゴリーに分類される。名前の起源はチェコの地方都市ピルゼンで開発されたことに由来するが、この黄金色の「ピルスナー」はその見栄えと切れ味鋭い飲み心地で瞬く間に世界のビール市場を席巻し、それまで主流とされてきた英国のエールやスタウトといったビールを圧倒し、現代ビールの標準規格を形造ることになった。
実はこのピルスナーというビールはもともとミュンヘンで伝承されてきた「下面発酵」という醸造方法がチェコに技術流出したものなのである。これは発酵に用いられる酵母の種類の相違で、元来は発酵後に酵母が液面に浮かび上がる「上面発酵」のビールが標準的だった。下面発酵ビールは一般に味にキレがあり透過色が美しく、かつ低温での発酵が可能で雑菌が繁殖しビールが腐敗するリスクが少ない。下面発酵ビールは低温で保管されるため、爆発的な普及とともに倉庫を意味する「ラガー(Lager)」の名で呼称されるようになる。ミュンヘンは現代ラガー・ビールの故郷と言ってよい。
現在のドイツでもビールの主流はラガー・ビール、とりわけこのピルスナー(ドイツ語では単にピルス(Pils)と呼ばれる。)であり、この点では世界市場と同じである。ミュンヘンなど南部ではへレス(Helles)と呼ばれるやや苦味を抑えた旨みの濃いビールが主流であるが、これも醸造方法においてはほとんどピルスと変わりない(左はドイツピルスの代表的銘柄の一つ、Krombacher.)。
ただドイツビールの奥深さを楽しむためにはピルスやへレス以外のビールにも目を向けてみる必要がある。ドイツのビールの多様さはそのままドイツという国の地域的、歴史的な多様性を反映しているようで、知れば知るほど興味深い。
ビールの歴史は古代メソポタミア文明にまでさかのぼるが、ゲルマン人に伝搬し定着したのは紀元前後の頃だと言われる。タキトゥスの『ゲルマニア』にビール関連の記述が残っている。
「飲料には大麦または小麦よりつくられ、いくらかブドウ酒に似て品位の下がる液がある。」
といった具合で、面白いことに既に古代ローマの時代から「ワインこそ高貴なるローマ人の飲料であり、ビールなぞは野蛮なゲルマンの酒」という意識がうかがえる。このようなイメージは同時代に広く普及していたようで、ギリシアの歴史家ヘロドトスの著書にも「エジプト人がビールなぞを飲んでるのはエジプトではブドウがないから仕方なく飲んでいるのだ」という趣旨の記述がある。
当時のビールはもちろん「麦芽からつくられる酒」という定義内でのビールに過ぎず、現在の感覚で言うビールとはもちろん別物で、どちらかと言えば穀物の摂取(調理?)方法の一環としての性格が強かったとされる。そのためビールづくりはパンと同じく各家庭ごとの女性の仕事であり、うまいビールを作る娘は嫁入りの際に重宝がられたという冗談のような話まである。
このように本来ゲルマンの庶民の生活に密着した存在だったビールは、中世の封建社会の成立とともに修道院や領主の管理下に置かれ始める。当時のビールは味付けのための添加物として薬草やハーブなど雑多な植物が用いられていたが、経験と技術が統合蓄積されるにつれ、ホップとの組み合わせが保存の面でも味の面でも最適であるとの認識が共有されるようになった。こうして麦と水とホップという現代ビールの三大要素が定着することになる(右はホップの毬花)。
16世紀になると南部のバイエルン候国でヴィルヘルム4世が有名な「純粋令(Reinheitsgebot)」を公布する。「ビールは大麦とホップと水の三つの原料以外を使用してはならない」との規定を核とするこの法規はバイエルン産ビールの品質を高めることに貢献し、州都ミュンヘンを世界に名だたる「ビールの都」」に押し上げることになる。この法規は20世紀までにドイツ全土に適用範囲を拡大し、その精神は現代まで連綿と受け継がれている。現在ドイツで醸造されるビールが麦100%であるのはこのためで、ビールのラベルには大抵誇らしげに「Gebraut nach dem deutschen Reinheitsgebot(ドイツ純粋令に則り醸造)」と書かれており、いかにもといったドイツ的な職人気質を感じさせてくれる。
街中で大きなくしゃみをする。どこからともなくGesundheit!(ゲズンドハイト!)の声が投げかけられてくる。Danke!(ダンケ!)と大きな声で返す。Gesundheitとは「お大事に!」の意で、ドイツではごく一般的な習慣である。
昔見たジェームズ・ディーン主演の映画『理由なき反抗』(もちろん舞台はアメリカ)で、ヒロインが劇場でくしゃみをした同級生にGesundheit!と声をかける場面があったのを覚えているが、それほどにこのドイツの習慣は広く世界に知られているらしい。人情味を感じさせる習慣で、私は好感をもっている。
同じ鼻をめぐる習慣でも、少しギョッとさせられるのが、こちらの人は所かまわず鼻をかむ、ということである。食堂であろうが講堂であろうが図書館であろうが、食事中であろうが授業中であろうが勉強中であろうが、とにかく大きな音を立てて平然と鼻をかむ。この習慣はドイツだけではなく欧米諸国一般の習慣だと聞いたことがあるが、若い女性に面前で堂々とこれをやってのけられると、彼我を隔てる文化の壁の高さを感じずにはいられなくなる。
ただこの習慣には裏面がある。
ある日、図書館で勉強しているとどこからともなくティッシュが放り投げられてきた。風邪をひいて鼻の調子が悪い時である。といっても鼻をかむほどではないし、日本人の自分には図書館のど真ん中で大きな音をたてて鼻をかむ度胸はないので、Danke!と言ってそのまま返しておいた。親切の割には文字通り「投げて」きたし、当人の視線も少し厳しいように感じられたのだが、ドイツ人はこういう(不器用で)小さな親切を躊躇しない国民だ、という理解があったので、それほど気にすることはなかった。
しかし同じようなことが3回ほど続いて、さすがに変だと思った。ドイツ人はまあ親切な方だが、この頻度は親切の枠を少しばかり超えている。その時ふとある考えが頭をよぎって、しばらく耳を澄まして周りの様子をうかがってみた。
「鼻をすする音」が全く聞こえないのである。
勢いよく鼻をかむ連中はそこかしこにいるのだが、不思議なほど鼻をすする人がいない。
そう、ここでは「鼻をすする」ことがタブーだったのである。それに気がつかずに鼻をブスブスやっていた私に彼らは恐らくは非難の意をこめてティッシュを投げつけたていたのだろう。渡航して一年近くになるのに基本的なマナーに気づいていなかった不覚を反省した。以来人前では鼻をすすらないよう特に注意している。
確かに鼻水を鼻の中に引っ張り戻すという行為は、考えようによっては不潔で不衛生であり、きちんと鼻をかんで出しきってしまうのが正しい、それを躊躇する方がおかしい、というのは筋が通った理屈である。些少な例だが、文化習慣は一部だけ取り出してみるといかにも奇妙だが、裏面を知り全体を見ればある程度合理的で納得がいくようにできているものだ、ということをしみじみと実感させられた事件であった。それ以来、幾分鼻をかむ行為も気にならなくなった気がする。
ただそれでも、鼻をかんだチリ紙を無造作にポケットに突っ込んで、しかもそれを二度三度と使いまわしている学生の姿を目にさせられると、やはり自分は異国にいるのだ、と溜息をつかざるを得ない。いくらこちらで問題ない習慣だと言っても、自分はできる限り人前で鼻はかみたくない。
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