日本人は具象を好む民である。目に見えるもの、手で触れるもの、皮膚を通じて身体に伝わり行くもの、そうしたものを尊び、そこに日々の生活と思考の出発点を置く傾向が強い。どこにいるかも分からない神の存在について生真面目に思い悩む必要はない。観念的な宗派論争のために血で血を洗うような闘争を行うことなど馬鹿げている。絶対とか相対とか、イデアとかモナドとか、本質とか実存とか、そんなことはどうでもいい。今自分自身を取り囲む生の現実について、直に触れ、考え、より良い方向に「カイゼン」していくことこそが肝要である。
「現場主義」という、事業において、最前線で直接対象を見、触れ、扱い、それに伴うリスクを背負い、目に見える目標のために一途に打ち込むことをこそ尊しとする価値観は、そうした具象性を尊重する文化の一端である。「職人気質」と呼んでもいいかもしれない。そうした価値観が他の文明圏にないわけではないが、この国には殊にその傾向が強い。そしてそれは「抽象性」への軽侮、反骨と表裏一体である。欧米等の映画やドラマでももちろん人気が高いのは現場を軸とした物語だと思うが、純粋な政治や経済、思想上のリーダーの葛藤を描いた作品も広く市民権を獲得している。翻って日本では為政者、経営者、哲学者、思想家などは、立志伝的な物語を除けば、映画やドラマのテーマとして馴染みにくい。「戦略」「指導」「決断」「管理」という、いわばマネジメントの範疇に含まれる活動の凄みが、視聴者の胸に直に響いて行かないである。
やたらと「国家戦略」(「総合的な」「大局的な」「歴史的な」などと枕詞を付されることが多い)を唱える論者の多くは、理念としてそれを称揚するだけで、もう一歩踏み込んでその具体的内実を語ることができない。優れた「指導者」というのは、現場の意見を最大限に尊重し、現場の人間を守り、黙って責任を取る「人格者」として描かれる。マネジメントが実践的技術としてではなく、神秘と道徳の範疇に回収されてしまっているのである。
これが単に好みの問題に留まる分には実害はない。しかし、それが組織中枢の活動に対する無関心、あるいは言われなき低評価に繋がるようであれば、それは大いに問題とされねばならない。とりわけ、今回のような大規模な危機管理オペレーションにおいては、組織中枢の「戦略的決定」が、如何なる現場の「戦術的成果」も灰燼に帰すほどの巨大な波及力を持っていることを、肝に銘じておかなければならない。それゆえ、意思決定をする主体、機関が、如何なる情報を元にどのような戦略を立案し、どのような決断を下し、それがどのような形で伝達され、それに基づき現場がどのように動いたのかが、恒常的、かつ徹底的に検証されねばならない。「事件は会議室でおきてるんじゃない、現場で起きてるんだ!」との言葉を浴びせかけ、溜飲を下げることで満足してしまっては駄目なのである。まさに会議室で何が起きたのか、それを分析する作業こそが非常に重要なのである。
現場がいくら孤軍奮闘し、死体の山を築く壮烈な戦いを演じたとしても、組織中枢の活動が機能不全に陥れば敗北を免れえないというのが軍事の鉄則であり、我々日本人が身を持って65年前の敗戦で学んだはずの教訓である。その意味で「現場力」には限界がある。逆説的だが、日本人の強みである「現場力」を最大限活用するためにも、組織中枢の機能の在り方に対する鋭敏な感覚を養う必要がある。
それはより大きく言えば、統治、政治、民主主義という営みの重要性について、日本人が腹の底から理解するための第一歩でもある。今次大震災はそのための豊富な教訓を提供してくれているはずである。
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