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望雲録

のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

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もう一つの自由民主党(1)

 今回の総選挙の勝者は自由民主党であった。

 といっても日本の話ではない。ドイツの話である。

156333578-angela-merkel_9.jpg さる9月27日、ドイツでは4年ぶりに連邦議会選挙が実施された。選挙戦は一貫して「退屈」「盛り上がりに欠ける」と散々の評価で、投票率も70.8%と(あくまでドイツ基準では)振るわなかったが、選挙結果はドイツ政治の一つの転換点を示すものとなった。メルケル首相率いるキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)は33.8%と微減したものの第一党の地位を維持した。対してシュタインマイヤー外相率いる社会民主党(Sd44b9a94.jpegPD)は23.0%と、戦後最低の得票という歴史的敗北を喫した。三つの少数政党(自由民主党、緑の党、左翼党)はいずれも健闘して得票率を二桁台に乗せたが、中でも自由民主党(FDP)は14.6%を記録し、戦後最大の得票率を記録することになった。

sitzverteilung_285.jpg この結果、超過議席分も合わせた連邦議会の総議席数は622議席となり、CDU/CSUで239議席、FDPで93議席となり、両党の合計で332議席と過半数を大きく上回った。両党は選挙前から大連立の解消とSchwarz-Gelb(黒黄連立政権、黒はCDU/CSU、黄はFDPのシンボルカラー)を目指すことを明確にしていたが、メルケル首相とヴェスターヴェレ自由民主党党首はこの目標を見事達成したこととなる。

 選挙結果についてはすでに日本の新聞等でもある程度詳細な分析がなされているのでここでは深く立ち入らないが、マクロな構造的要因としては欧州先進国政治の中道化という現象と少数政党の成長という要素を上げることができる。

 SPDは1998年に成立したシュレーダー政権においてイギリスの労働党と同様に中道政策を推し進め、党内左派の反対を押し切って社会保障改革を断行するなど、伝統的な政治的基盤であった労働組合の主張と必ずしも相容れない右傾化路線を取っていた。一方でメルケル率いるCDU/CSUは「Mitte(中道)」を合言葉に必ずしも伝統的な保守勢力に依存しない政策や発言を繰り返してきた。2005年以来の大連立政権が想像以上にうまく機能したことには、両者の間にはすでに冷戦期のように決定的な政策対立がなくなっていたことを大きな要因としてあげることができる。今回の総選挙においても、もちろん両者がともに政権を担い肩を並べて政治を担っているという意味で歯切れの良い批判が難しいという面はあったにせよ、結局選挙戦終盤に至るまで一体何が争点なのかが明確にならなかった。結果として政策ではなく個人的人気で大きく勝るメルケルがアドバンテージを得たのはある意味で当然の結果であった。

 加えてドイツにおいては近年多党化現象が進んでいる。両二大政党の差異が不明確になる一方で、比較的分かりやすい政策の旗を掲げる少数政党に票が流れる現象が顕著になってきている。とりわけ、保守層には事実上CDU/CSU以外の代替選択肢はないが、リベラル層には緑の党、左翼党の二つの政党が現実的な代替選択肢として用意されている。自らの右側に対立政党を抱えないCDU/CSUに比べ、常に左側を切り崩される恐れのあるSPDにとって、選挙戦略はより微妙なさじ加減の求められる難しい課題となっている。シュタインマイヤー外相はシュレーダー路線を引き継ぐ党内右派・中道路線派だが、結果として見事にこの陥穽に落ち込む結果となったと言えよう。

image-18754-galleryV9-ndml.jpg こうした構造的要因だけでは説明し難い部分が今回の選挙にあったとすれば、それは自由民主党(Freie Demokratische Partei, FDP)の躍進である。ドイツの保守政党であるCDU/CSUはイメージとしては日本の古い自民党的な泥臭さが残る政党であり、新自由主義、新保守主義的な要素はさほど強くない。それをドイツでいわば補完するのがFDPであり、都市中間層を主な支持基盤として減税や規制緩和などの政策を打ち出し、戦後ドイツにおいて一定の支持を得てきた。基本的にCDU/CSUとの連立を組む傾向が強いが、時にはSPDとの連立も行い、緑の党が連邦議会に進出する以前には常に二大政党の間にあってキャスティングボードを握り続け、結果として戦後ドイツでもっとも与党経験の長い政党となった。
 日本の自民党に勝るとも劣らない、強かさと実績を備えた政党である。(
上は勝利を祝うFDPのWesterwelle党首。)

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ブログ改装のお知らせ

 数か月前のエントリーでは偉そうにドイツレポートを続けていくと書いていたくせに、正直帰国してみるとドイツ情勢にじっくり取り組む暇がない。ましてや日本の政治がこれだけ大変な事態になっている状況下で、毎日喜々としながら情勢をフォローしていると、次第にドイツ語もドイツへの関心もゆらゆらと薄らいでいく。大体このブログの性格からして記事の更新には結構な時間がかかるのである。今の生活状態で、地球の裏側にいる国のことを調べ、考え、定期的に記事にして更新していく作業は、想像以上に、きつい。

 月に一度も更新できないようではそもそもブログとして成立しない。といっても今の状態ではとてもドイツの事ばかり書き続ける気力も時間もない。そこで長い間このブログを楽しんでくれた読者のみなさんには申し訳ないですが、本ブログを全面的に改装し、mixiの方でやっていた日記と統合する形で、趣旨を大きく変更させていただきたいと思います。

 扱う話題はもはやドイツに限定されませんが、その代わりせめて週一程度の更新頻度は守りたいと思います。基本的に私の関心事は同じなので、やはり政治や歴史中心の内容になりますが、今までに比べると若干緩めの内容や文体が増えるとは思います。もちろん折にふれてドイツ関連の記事も書きたいとは思っています。

 本当は「祖国雑感」としたかったですが、すでに使ってる友人がいるので(笑)、考えた末、「望雲録」としました。もちろん「坂の上の雲」からとりました。今の自分、今の日本に見つめて坂を上っていくべき「白い雲」があるのか。それはいったいどういうものなのか。そういうことを考えていきたいと思っています。

 それでは引き続きよろしくお願いいたします。

マッド・サイエンティストの原型(4)

 このエントリーを書くきっかけとなったのはテレビで放送されていたフォン・ブラウン博士のドキュメンタリー番組である。ドイツでは毎日のようにナチ時代関連のドキュメンタリーや映画が流されているが、この「ナチスからNASAへ」と題された番組も例にもれず、この科学者の非道徳性をやや批判的に描く内容であった。その中でコメンテーターが概要以下のように述べていたのが印象に残った。

「高度な知性を持った人物がモラルなしで暴走してしまう。これは我々の歴史の中で観察される、一つの問題的な精神類型なのです。」

 スペシャリスト志向かジェネラリスト志向か、民族の知的傾向を仮にそのように大別できるとするならば、ドイツは前者に属する代表的な国であると言えよう。知性が人格の陶冶と密接に関連するという確信、あるいは関連させねばならないという思想を教養主義とするならば、ドイツには教養主義の伝統が希薄のように思われる。実際、この国の大学には教養学部というものがない。それはドイツ人学生の質が低いということでは全くない。むしろ日本の教養学部であるとか総合人間学部であるとか(ドイツ人に言わせると)意味の分からない学部で勉強する学生に比べれば、彼らは確実にまとまった専門知識の果実を手にして大学を去る。ドイツ人学生の専門知識の深さはしばしば舌を巻くほどに詳細で正確であり、彼ら自身もその専門性に安住する傾向があるように思われる。

 一方で幅の広さという点ではいささか心もとない。ハイネを知らなかったり、カフカの小説の原文はチェコ語だと思っていたり、カントとヘーゲルを勘違いしていたり、人文科学分野で修士号や博士号を持っている人でも、ままそういうことがある。広く知を求めること、古典にいそしむことで平衡的に知性を発展させようという感覚に乏しいのである。

 一個の命題へとわき目もふらず没入して行くドイツ的精神は、既存の常識を嘲笑うかのような様々な目覚ましいパラダイムシフトをアカデミズムの世界にもたらしてきた。しかしそのような科学者たちの経歴には、技術悪用への無頓着、精神疾患や自殺、私生活における奇行など、どこか人間的な平衡を書いた危うさを感じさせるものが多い。バランスを失った飛行機が地面に向かって錐もみに落下していくような、鋭角的な危うさがある。

 ハイネを知らなかった女学生が、"Ich bin nicht Germanistin! (私、ドイツ文学専攻じゃないもの!)"と言い放つ、ふてくされた表情を思い出す。近代という時代の一つの特徴が、全体の合理的な細分化と専門分化という点にあったとすれば、それは間違いなくドイツ人を利したと言えるだろう。ドイツ人がそのことにどれだけ自覚的でいるかは、正直よくわからない。

 確かなのは、21世紀もすでに幾年を重ね、近代という時代が漸う過ぎ去りつつあるという事実である。

マッド・サイエンティストの原型(3)

 アメリカでのブラウンの最初の仕事はアラバマのブリス駐屯地での研究教育活動であった。ここでブラウンと彼のロケット開発チーム達はドイツから移送されたV2ロケットの再整備なども行ったという。外出には常にエスコートがつくなど、自由は制限されていた。1950年に朝鮮戦争が勃発すると、ブラウンは再び軍用弾道ミサイルの開発に従事することになる。red-stoneと称される米軍初の核弾頭搭載可能な弾道ミサイルである。軍用ミサイルの開発に精を出すかたわら、しかし彼の「宇宙有人飛行」の夢は一貫していた。彼は地元アラバマを拠点に積極的に宇宙飛行の実現可能性をアメリカ国民に訴えかけるPR活動を行った。出版講演活動はもちろん、ディズニーの宇宙冒険映画開発に協力したりもした。
 S-IC_engines_and_Von_Braun.jpg
1957年のスプートニク・ショックの後、米政界にロケット開発への機運が盛り上がり、翌年NASAが設立され米ソの宇宙開発競争が本格化する。こうした動きの中でロケット開発の第一人者であり、すでに先進的な宇宙開発専門家として名が知られ始めていたブラウン博士は、1959年NASAへの転属を命じられる。新設されたマーシャル宇宙飛行センターの初代所長として、ようやく思う存分夢の実現にまい進できる環境が整ったのである。
64371f72.jpeg ブラウンはケネディの打ち出したアポロ計画の実現に向け、大気圏外に衛星のような思い搭載物を運搬できるロケット技術の開発に心血を注いだ。彼が開発を手がけたロケットは「サターン」シリーズと呼ばれる。その第5世代であるサターン5号が、アポロ11号とそのクルー達を月面へと送り出したのである。1969年7月16日のことであった。ブラウン博士にとって、人生最高の瞬間であったろう。フォン・ブラウンと彼のチーム無くしては、これほど短期の月面着陸は実現不可能であったと言われる。(左はケネディ大統領と相談するブラウン。)
 
 アポロ計画がアメリカの宇宙開発の頂点であったように、ブラウン博士の人生もここで頂点を極めた。彼の次なる夢は火星への有人飛行計画であったが、宇宙開発に後ろ向きとなった米政府の十分な支援が得られぬまま、その後は特筆すべき業績もなく、関連の民間企業や研究所を転々としたのち、1977年に腸がんで亡くなった。65歳であった。

 夢に生き、それを自らの才覚と努力で実現した。それは間違いなく人類の進歩に貢献した、壮大な夢であった。良い人生だったとも言える。彼がその人生の節目節目で取った行動も、時代状況の厳しさを考えれば、非倫理的とまでは言えない。
 
 ただ自らの関心にのみ忠実な、没倫理的な人生とは言えるだろう。ナチスの闇に加担した過去と、宇宙飛行を夢見る子供のような無邪気さとが、同じ人間に共存したという事実は、考えようによっては名状しがたい不気味さを醸し出す。ナチス批判がかまびすしくなった現代のドイツでは批判的な見方が強い。

マッド・サイエンティストの原型(2)

 フォン・ブラウンはプロイセン地主の次男として生まれ、幼い頃から音楽と自然科学に優れた資質を示したという。幼少期から手製のロケットを飛ばしたり、宇宙飛行に関する書籍に夢中になったりと、宇宙空間に至るロケットの開発は文字通り彼にとって子供の頃からの夢であった。
 
 1932年にベルリン工科大学を卒業したブラウンは陸軍兵器局に職を求める。この間、彼の研究対象は一貫53759a31.jpegして液体燃料ロケットであった。彼がベルリンで研究にいそしんでいた時期はちょうどドイツのナチ化の時期と重なっている。ブラウンのナチ入党は1938年のことであり、決してヒトラーの賛美者であったというわけではない。ただ時代が彼の才能を必要とした。ブラウンのロケット研究に強い関心を示したナチスによって、彼はドイツ北岸のPenemuende(ペーネミュンデ)の軍事実験施設に配属され、地対地弾道ミサイルの開発研究に没頭した。

 1944年、彼の手によって開発されたロケットはVergeltungswaffe2「報復兵器2号」と称され、ロンドンを襲った。このいわゆるV2ロケットは、人類史上初めて宇宙空間に到達したとされる発射物である。音速を超えるV2ミサイルの迎撃も予測も不可能で、唐突に市内に炸裂するという性質は、市民に大きな心理的恐怖を与えたという。大戦終了までイギリスやベルギーを中心に合計3200発が投入され、8000人近い市民が犠牲になった。ただよく知られている通り、戦略的にはほとんど意味のない兵器であった。
 
 このV2ロケットの量産に当たり、ナチスはブッヘンヴァルト収容所近郊に秘密建造施設を建設し、週四所のda4b5a7a.jpeg囚人を清算作業に従事させたという。真偽は定かではないが、一説によればブラウンは自ら現地で生産に当たる囚人を選別し、ロケット量産の指揮を執ったとされる。のちにブラウンがアメリカで名声を博した際、この時代を知る収容所の生き残りの人々が激しい抗議運動を展開した。ブラウン自身は晩年に至るまで「収容所の悲惨な労働環境については知らなかった」と述べたという。このDora-Mittelbau付属収容所ではおよそ2万人が命を落とした。今日とりわけ厳しく批判される点である。
 
 戦争終結間近、ブラウンはソ連の占領を逃れ、ドイツ南部に避難し、そこに進駐してきた米軍と接触する。当時米軍は「曇天作戦(Operation Overcast)」と呼ばれるドイツ科学者のリクルート作戦を展開しており、ブラウンは自分の軍事ロケット開発者としの有用性を米軍に売り込んだのである。

 1946年、荒廃したドイツに背を向け、ブラウンはアメリカへと旅立つ。この時35歳である。

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HN:
Ein Japaner
性別:
男性
職業:
趣味:
読書、旅行
自己紹介:
三度の飯より政治談議が好きな30間近の不平分子。播州の片田舎出身。司馬遼太郎の熱狂的愛読者で歴史好き。ドイツ滞在経験があり、大のビール党。
[12/16 abuja]
[02/16 einjapaner]
[02/09 支那通見習]
[10/30 支那通見習]
[06/21 einjapaner]

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