このエントリーを書くきっかけとなったのはテレビで放送されていたフォン・ブラウン博士のドキュメンタリー番組である。ドイツでは毎日のようにナチ時代関連のドキュメンタリーや映画が流されているが、この「ナチスからNASAへ」と題された番組も例にもれず、この科学者の非道徳性をやや批判的に描く内容であった。その中でコメンテーターが概要以下のように述べていたのが印象に残った。
「高度な知性を持った人物がモラルなしで暴走してしまう。これは我々の歴史の中で観察される、一つの問題的な精神類型なのです。」
スペシャリスト志向かジェネラリスト志向か、民族の知的傾向を仮にそのように大別できるとするならば、ドイツは前者に属する代表的な国であると言えよう。知性が人格の陶冶と密接に関連するという確信、あるいは関連させねばならないという思想を教養主義とするならば、ドイツには教養主義の伝統が希薄のように思われる。実際、この国の大学には教養学部というものがない。それはドイツ人学生の質が低いということでは全くない。むしろ日本の教養学部であるとか総合人間学部であるとか(ドイツ人に言わせると)意味の分からない学部で勉強する学生に比べれば、彼らは確実にまとまった専門知識の果実を手にして大学を去る。ドイツ人学生の専門知識の深さはしばしば舌を巻くほどに詳細で正確であり、彼ら自身もその専門性に安住する傾向があるように思われる。
一方で幅の広さという点ではいささか心もとない。ハイネを知らなかったり、カフカの小説の原文はチェコ語だと思っていたり、カントとヘーゲルを勘違いしていたり、人文科学分野で修士号や博士号を持っている人でも、ままそういうことがある。広く知を求めること、古典にいそしむことで平衡的に知性を発展させようという感覚に乏しいのである。
一個の命題へとわき目もふらず没入して行くドイツ的精神は、既存の常識を嘲笑うかのような様々な目覚ましいパラダイムシフトをアカデミズムの世界にもたらしてきた。しかしそのような科学者たちの経歴には、技術悪用への無頓着、精神疾患や自殺、私生活における奇行など、どこか人間的な平衡を書いた危うさを感じさせるものが多い。バランスを失った飛行機が地面に向かって錐もみに落下していくような、鋭角的な危うさがある。
ハイネを知らなかった女学生が、"Ich bin nicht Germanistin! (私、ドイツ文学専攻じゃないもの!)"と言い放つ、ふてくされた表情を思い出す。近代という時代の一つの特徴が、全体の合理的な細分化と専門分化という点にあったとすれば、それは間違いなくドイツ人を利したと言えるだろう。ドイツ人がそのことにどれだけ自覚的でいるかは、正直よくわからない。
確かなのは、21世紀もすでに幾年を重ね、近代という時代が漸う過ぎ去りつつあるという事実である。
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