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望雲録

のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

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15年という歳月

 Kから「明日の朝夜行バスで新宿につくから昼飯を食べよう」というメールが唐突に届いたのは、土曜の昼下がりのことだった。
 Kは、中高生時代からの私の友人である。正確にいえば小学生の頃からの知り合いである。

 私たちは当時、地元でスパルタ教育で有名だった同じ進学塾に通っていた。小学生のころの私たちはまだお互いの顔を知っていたくらいで、特段仲が良かったということではない。ただKの成績はほとんどいつもトップだったため、同じ塾の誰もが彼のことを知っていた。と言ってもKは特段目立つ男では全くなく、どちらかと言えば気の弱そうな、静かな優等生だった。私などは彼とは正反対の目立ちたがり屋で、いつも先生達の手を煩わせていたように思う。子供だった私は実に単純に毎度のテストの成績に一喜一憂していて、たまにKより点数が上だったりすると無邪気にはしゃいだ。

 Kと親しくなったのは、中高で同じ将棋部に入ってからのことである。当時同じ学年には真面目な部員がKと私を含めて3人いた。私たちの将棋はそれぞれに個性が違っていて今から考えれば良い組み合わせだったが、実力はKが頭一つ抜けていた。
 終盤になるにつれてあらが目立ちポカを繰り返す大雑把な私の将棋に比べ、Kの将棋は如何にも才気走っており、後半になるほど尻上がりに鋭さを増した。定跡や戦法の研究という点ではさほどこだわりを見せなかったが、実戦で通用するのは大抵彼の方で、結局3人の中で全国まで行けたのもKだけだった。将棋という小さな世界の話でありながら、恐らくこの時期に、私ははじめて「努力で越えられない何かがこの世には存在する」という、憂鬱な予感を肌身に感じさせられたのだと思う。

 理系だったKはその後京都の大学に進み、建築を専攻に選んだ。私は東京の大学に進み、法律や政治を学んだ。文系理系と専門に重なりがなかったことは私のKに対する劣等感を育てずに済んだ。何かの拍子で大学時代の後半ごろから再び連絡を取るようになり、私がドイツに行くまでの間、年末の帰省の折には京都の彼の下宿に転がり込んで、2、3日暮れの古都の空気を吸ってから帰郷するというのが習慣になった。

 Kの大学での研究は順調なようだった。Kの教授は彼の才能を高く評価していた。Kの作成した研究模型やプレゼン資料を見せてもらう機会もあったが、素人目にも垢ぬけたセンスを感じさせるものが多かった。その研究はのちに何かのコンクールで賞をもらった。京都という駘蕩とした雰囲気の漂う街でぼんやりと全く畑の違う学芸の話題に花を咲かせるのは、堅い勉強と実務に緊張していた頭と精神を緩ませる、少しデカダンスな瞬間だった。

 Kはその後大学院まで進んだあと、東京の小さな建築事務所に就職した。だから彼が「夜行で東京に来る」というメールを送ってきた時、おや、と思った。彼が就職した直後、私はドイツに渡り、私が向こうにいる間は特段やり取りをしていなかったため、お互い事情に疎くなっていた。夏に帰国した際、彼にもその旨を知らせておいたのだが、会うのは今回がはじめてで、実に3年ぶりということになる。
 
 久し振りに見るKは、相変わらずひょうひょうとしていた。私たちは雑踏を避けて西新宿の高層ビル群の方へ歩いて行き、とあるビルの最上階に上って、東京を見下ろせるすし屋に入った。ビールを飲んだ後、自然と仕事の話になった。Kは淡々と、むしろ少し愉快そうに、今の身の上を語った。

 彼の就職した事務所は、この不況の煽りで資金繰りに失敗し、1年ほどで潰れたのだという。

 Kの父は地元では知られた企業の社長をやっていたが、その会社も彼が大学生の時に倒産した。そのため彼は大学時代経済的に厳しい生活を送ることになっていた。毎度泊めてもらう彼の下宿は中心部への便が悪く、築30年の古びたアパートだった。

 しかしその事務所が民事再生法を申請する顛末を語るKは、意外にさばさばとしていた。
 事務所がつぶれた後、彼は京都の研究室に戻った。学費は奨学金と仕事で稼いでいるという。仕事と言うのはウェブデザイナーということで、前の事務所で培った人脈とスキルで月に10万程度は稼ぎがあるということだった。今は気の合う仲間と一戸建てを6人で借りて共同生活を営んでいるという。

 私の方と言えばさほどドラマチックな話もできるはずもなく、財政赤字がどうの、行政改革がこうの、政治主導がどうのこうのと、Kの知識と関心が薄い分野であることをいいことに、生半可な抽象論を振り回して放言した。

 ひとしきり話した後、場所を変えてコーヒーでも飲もうということになって、私たちはまた人気の少ない高層ビルの麓をぶらぶらと歩いた。とりとめもなく話題は将棋や旧友の消息に移った。懐かしい戦法や友人の名前が中空に浮かんではすぐに消えた。

 道すがら、私がドイツにいる間にできたロケット型のコクーンタワーを指差して、「同じような建物がロンドンにもあったよな」と言うと、「こっちのは構造とデザインが分離してるから評判悪いんだよ」と、Kはさっくりと答えた。

 とあるビルのふもとに見つけた喫茶店に向かうと、面白いことにたまたまその隣のフロアを借りて、全国の建築学部の卒業制作コンクールの展示イベントが行われていた。

 ぶらぶらと展示されている卒業制作を眺めているKに、私はあれはいい、これはだめと、横から口軽く素人批評を投げかけて見た。Kはその度に軽く笑いながら、しかし制作物から目を離さずに、適当に私の答えをあしらった。

 ふと私の脳裏に「歳月」という言葉が浮かんだ。私はぼんやりとつぶやいた。

 「おれら、もう15年のつきあいなんやなあ」

 私の真意を知ってか知らずか、Kは一瞬間をおいてから、やはりぼんやりとつぶやいた。

 「そうやなあ」

 どちらからともなく、失笑とも自嘲ともとれる笑いが噴き出した。

 気がつけば優等生だったKよりも、気性でも成績でも棋風でも波が激しかった私の方が、ずっと単純で安定した人生を歩むようになっていた。ただ私たちにとって滑稽だったのは、そういう人生の変転そのものというよりも、それを感じることができるまでにいつの間にか重ねてしまった15年という歳月の、意外なほどカラリとした佇まいの方であった。

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議会政治後進国

 先週末以来、民主党の「強行採決」が巷を賑わせている。この臨時国会に限った話でいえば、民主党側が法案数の割に余裕のある会期を設定しなかったことが最大の原因だろう。ましてや政権交代後初の国会であるのだから、予算委や党首討論で首相と議論する時間を十分確保すべきだとする野党側の主張は筋が通っている。

 ただし、これはあくまで55年体制下での国会運営を前提とした際の話である。我々はこの際、もっと素朴な疑問から始めて良い。なぜ国会に「会期」があるのか。なぜ「会期」前に成立しなかった法案は「廃案」となり、次の国会で一から審議し直す必要があるのか。そもそも「強行採決」とは何か。議案に不満を持っているはずの野党が、なぜ「審議拒否」をして議案の議論を放棄するのか。議論を放棄した者を無視して採決をすることが、なにゆえ「強行」なのか。なぜ一つの案件で日程の合意ができないことが、国会全体の審議の停止につながるのか。

 こうした日本の議会政治特有の現象を説明するのは、日本人相手でも相当に骨が折れる。恐らく議会政治先進国の政治家にこれらを合理的に説明するのはほとんど不可能ではないか。日本の議会政治はそれほど世界標準からみると特殊で捻じれた暗黙知の世界を有している。

 国会法の制定経緯については詳しくないが、少なくともこうした国会運営を定着させてきたのは55年体制である。「万年与党」と「万年野党」の存在が固着化する中で、ムラ社会的な均衡の論理によって育まれてきたのが、議論の中身ではなく手続き面で野党の部分的抵抗を可能にするという慣習であった。そして議案を会期末までに綿密なスケジュールに従って処理することを与党に強制する「会期」制度が、これらの慣習に実質的意味を付与した。数に任せた「強硬」で「横暴」な自民党に対して、少数政党が健気に抵抗する姿を国民に示すことで同情を引く、あるいは議案の内容を「議論しない」ことで時間切れに持ち込むという審議拒否・審議引き延ばしの風景が、この民主主義国の「国権の最高機関」のハイライトであり、与野党対立の頂点をなしていた。同じ引き延ばしならせめて米国ばりの議事妨害(Filibuster)でもやればまだ絵にもなろうが、代わりに野党が採用したのは牛歩戦術だった。

 日本は曲がりなりにも100年を超える議会政治の歴史を持つ。その実態がこれかと思うと、情けなくなる。

 極端な話、議会制民主主義においては定期的に実施される選挙の結果においてすでに民意の大方針は示されている。議会に期待されているのはその民意の実現に当たってのより良い法制度作りと執行者たる行政への厳しい監視監督である。手続き面で姑息な策略を駆使することで与党法案の成立を遅らせあるいは時間切れ廃案に追い込むというのは議会制民主主義の自殺行為と言っても良い。国会議員の本職は議会の場で息が切れるまで議案を討議し、議案の問題点を洗い出し、より良い対案を示し、その違いを世論に訴えることにある。それは選挙区で声を涸らすまで有権者の支持を訴えることと同様もしくはそれ以上に重要な使命であるという真っ当な感覚を、55年体制下の国対政治は麻痺させ続けてきた。従って、そうした議論を可能にする国会の制度改革の声も、決して大きくなることはなかった。

 何より病巣が深いのはマスコミが相も変わらず強行採決と審議拒否こそ「国会の華」であるかのような浮かれた報道を垂れ流していることである。「政権交代をしてもやってることは同じなんですね!」としたり顔で語るテレビキャスターやジャーナリストたちは、国会運営の駆け引きこそが政治であるという、55年体制下の歪んだ常識に未だに安住しているのである。

 今この時点で注目すべきは与野党が交代しただけの国対政治の喜劇ではなく、むしろ小沢氏が政権交代後から唱えている国会改革論の内容であろう。小沢氏の依頼を受けて21世紀臨調が作成したとされるこの改革案の内容は、政権交代を機に怠惰な慣行を積み重ねてきた日本の議会政治に新風を吹き込むという点でもっと注目されてよいはずである。マスコミは「官僚答弁」の是非についてばかり関心を向けているが、枝葉末節の問題に過ぎない。多少国会の病巣の本質をわかっている人間であれば、「300日以上の常会会期の導入」「会期不継続原則の廃止」の方がはるかに大きな地殻変動をもたらすであろうことに容易に気がつくはずである。

 現在の国会の問題はその8割が制度と慣習に起因している。国会法という法律一本をうまく改正することさえできれば、比較的柔軟な思考のできる民主党政権の下であれば、がらりと国会の在り方は様変わりし得る。

 恐らく日本の議会政治は90年代に民主化を達成した国々よりも非生産的で非民主的な面が強い。民主主義も議会政治も、その質は制度を採用した古さと決して比例するものではない。そういう「後進国」としての自覚と危機感は、もっと共有されてしかるべきものである。


即位20周年

 昔、司馬遼太郎が昭和天皇の崩御の際に書いた追悼論評で、「日本人にとって天皇という存在は神聖なる『空』であった。我々の追悼の祈りはこの偉大なる『空』に捧げられるべきものであると思う」と言った趣旨のことをのべていた。

 昭和という、日本人にとってそれ自体が一大叙事詩と言って良い時代の物語を、この国の歴史群像の中で誰が一番顕現できるかと言えば、結局のところそれは昭和天皇という存在に帰着せざるを得ないのではないかという思いがある。それはケネディのアメリカ、ドゴールのフランス、ブラントのドイツといった、生身の政治的人間のカリスマが国家と時代を染め上げたという意味での動的な英雄ではなく、激動の時代を、最も「共に生きた」ことから滲み出てくる静かな思ひ出、それを回顧するに最も相応しい存在という意味での時代の象徴である。政治的英雄を輩出しないという不思議な風土を持つこの国において、時代の節目を作りうるのは政治家ではない。

 自分の年齢ではこの辺りの感覚はつかみにくいところがあるが、恐らく我々より一つ上の世代の人々は、この背筋が曲がった丸メガネの200px-Reagan_hirohito.jpg老人の顔を目にするたび、否応がなしにこの国の背負う歴史の重みというものに直面せざるを得なかったのではないかと思う。昭和天皇はその意味でいささか「重い『空』」であったのではないかと思う。昭和陛下の崩御は、同時代人にとってはまさしく一つの時代の終焉であったと思う。
 折しもベルリンの壁が崩壊して自由主義の勝利が高らかに宣言され、日本はまさにバブルの絶頂期であり、ジャパン・アズ・ナンバーワンが生きた神話として流布していた時代である。文字通り歴史は終わり、「平成」という元号の持つ朗らかな響きに、人々は新時代の幕開けを感じたのではないか。

 こうした中で、天皇が如何に皇室の伝統と新時代の空気との狭間で自己の存在を規定していくかという作業は、想像以上に苦難と試行錯誤に満ちたものであったのではないかと思う。歴史の体現者としての昭和天皇が無言のうちに「国民の象徴」としての存在意義を充足できたのに比べ、平成という「歴史の終わり」から始めなければならなかった陛下は、自身の振る舞いによってのみしかそれを獲得する術がなかったのである。

 結論から言えば、陛下はその役割を非常に見事にこなされたのだと思う。被災者や高齢者といった「弱者へのまなざし」という、日本人の琴線に最も触れる分野で限りなく国民との距離を縮める一方、歴史的存在としての日本国の体現者として、昭和の「負の遺産」に思いを致す機会を国民に不断に提供し続けた。皇統の継承者、日本神道の祭祀者として、宮中行事をおろそかにされることもなかった。国民への親近性と歴史的存在としての深遠さを二つながら誠実に真摯に推し進めていく態度、ご高齢を押してもこれら増大する公務負担に耐え精励される姿が、左右老若問わず国民の信頼を勝ち得ることに寄与したのだと思う。想像を絶する滅私と克己の精神、心身両面の堅い自己規律がなければ、なせることではない。

 同時代人の所感としては、平成という時代はその明るい響きとは対照的に、物語の薄い虚無と停滞と混沌と失意がない交ぜになった鬱屈した時代である。時代性に伴うカリスマという利点を、いかなる意味でも陛下は得ることはできなかった。にも関わらず陛下はこの陰鬱な時代の最中にあって、見事に「神聖なる『空』」の領域を護持された。否、護持されたのではなく、陛下は自らの行いによって、新しくこの「空」の領域を造形し直されたと言った方が適切かもしれない。

20091112-00000024-maip-soci-thum-000-small.jpg 皇后陛下と共に記念式典を観覧される天皇陛下は、無用な感情と脂身が削ぎ落とされた、実によい笑顔をしておられた。今のこの国に、こういう表情のできる男が果たしてどれほど残っているだろうかと思った。私は一個の人間としてこの人物に畏敬の念を感ぜざるを得なかった。その偉大さが、次に来る世代の凡庸さによって思い起こされることがないよう、静かに祈った。


もう一つの自由民主党(2)

 我々は自由主義が保守主義と親和的であるというイメージを抱きがちだが、その根拠はそれほど確固たるものではない。

 単純に考えれば、冷戦により「自由主義=保守(右)」「社会主義=革新(左)」という単純明快な政策の類型化が推し進められたという歴史的要因がこのステレオタイプ化の根源にあるように思う。
 それ以外にもう少し論理的な説明があるとすれば、これは主に経済政策の観点になるが、保守主義が市場や私企業、家計に対する国家の介入を忌避するという意味で自由主義と親和性を持っていたという事実は経験的に観察できるだろう。とりわけ2大政党制をとるアングロサクソン系国家にはこの傾向が強いように見えるが、この点はレーガンやサッチャーを思い浮かべれば誰でも容易に理解できるところだと思われる。この二国の事例の日本国内での認知度の高さは他国のそれとは隔絶して大きなものがある。

 以上のような理由から、なんとなく日本の自民党も「自由主義」政党であるとのイメージが抱かれがちだが、いざ冷静な目でその50年の歴史を眺めてみれば、その内実に自由主義的とは言い難い要素が満ち溢れていることは明らかである。とりわけ、冷戦が終了して「保守=自由陣営」という公式がその意味を失うに従い、次第に自民党の「非自由的側面」が浮き彫りになっていったように思われる。ベルリンの壁崩壊後の自民党政権で「自由主義」の名に値するのは、カッコつきで小泉内閣、二重括弧つきで橋本内閣と安倍内閣くらいではないだろうか。

 今となって考えれば、実は自民党のイデオロギーは「西側陣営の一員」「永久与党」という二点に過ぎず、その内部には一般社会ではすでに消え失せたような日本のムラ社会的な掟と論理が閉鎖的な再生産を繰り返していて、個人においても経済においても「自由」を促進していくという思想はかなり希薄であったように思われる。
 小泉改革に対する反発の想像以上の強さ、「抵抗勢力」の巻き返しによりわずか3年で事実上新自由主義勢力が消失した過程は、この政党にイデオロギーとしての「自由主義」がほとんど根付いていなかったことの何よりの証左ではないか。ましてや経済政策以外の分野で自民党が自由主義的であったことは、ひょっとすると一度もないかもしれない。

 「保守=自由主義」の公式の下に自由主義を支持する有権者の票を胡坐をかきながらでも取り込むことができた冷戦時代が過ぎ去り、次第に都市中間層が自民党から足を遠ざけて行ったのは、ある意味当然の成り行きであったように思われる。逆にいえば冷戦の終結と共にすでに意味を失いかけていた「自由」の看板の真意のほどを再検証する作業を怠ってきたのが今の自民党という政党なのである。自民党が立派な「保守」政党であることに変わりはないが、「自由」政党であることの再定義は、冷戦終結後20年経った今でもまともに総括できていない。

 対照的に、ドイツの自由民主党(FDP)は看板に偽りがない。

 ドイツの保守政党であるキリスト教民主/社会同盟(CDU/CSU)が教会や農家などを強力な地盤とし、日本の自民党と同じ泥臭い保守主義のイメージを背負っているのに対し、FDPは主として自営業者や弁護士、都市部の中間層を基盤としている。その党是には明確に「自由の強化と個人の責任」が掲げられており、それは減税や規制緩和など経済的な文脈に留まるものではない。

 例えば治安政策においては市民の基本権を制限しかねない盗聴法案やオンライン上捜査権限強化のための法案に反対し、また刑法犯の厳罰化にも反対している。また倫理面でもES細胞研究支援に積極的であったり、同性愛カップルを法制面で結婚と同等に扱うことを主張したりと、なるほどFDPの主張は「自由の強化」という点において驚くほど一貫したものがある。
 これは自由主義という思想自体には現在においてもまだまだ革新的な要素が色濃く残されており、経済政策のみを取り上げて自由主義と保守主義とをひとくくりにしてしまうことの短絡さを示すものである。少なくとも日本の戦後史においてはこのような意味での「自由主義」政党が現れたことはないと思う。

 a4da57a3.jpegちなみにこのFDPの現党首にして新内閣の副総理・外務大臣であるGuido Westerwelle氏は自身が同性愛者であることを認めており、そのパートナーであるMichael Mronz氏(写真左)もしばしば公の場に共に現れるため、一般にもよく知られている。日本で自民党の政治家が平然と同様に振る舞う姿はまず想像できないだろう。保守主義と自由主義との断絶をこれほど鮮やかに示している例はなかなかないのではないか。

 ちなみにドイツメディアにはそのことを取り立てて問題視するような空気はない。むしろ問題視する方が問題であるという空気が満ち満ちている。それが現代ドイツという国である。

仕事をささえる「あそび」

日本人である程度一生懸命何かを成し遂げようと思って働いている人は普通は十分に自分の時間は持てない。とりわけ自分が所属している業界なんかではなおさらのこと。何かを成し遂げようと思えば何かを犠牲にせざるを得ない。才能がない人間にとって最後に残された道は戦場を絞って持てる戦力を総動員しての局地戦だ。勝利を欲するならば、それしか道はない。つい2年前まではただただ仕事のことだけを考えて、自分の時間なんて必要ないと思って、職場にいようがいまいが仕事に役立つか役立たないかで生活のスケジュールを考えて、焦って、もどかしくて、腹立たしくて、疲弊して、空回りして、虚しくなって、日々が過ぎていった。

振り返ると決してパフォーマンスがほかの人と比べて高いわけではないことに気が付き、愕然とさせられた。自分の才のなさを責め、また苦しみ、悶々とした日々が過ぎていく。倒れるように週末に辿りつき、ベッドの中で孤独と不安と暗い未来の予感にさいなまれながら、起きられず、起きる気がわかず、月曜の朝を迎えるまで死人のように眠りこけることもざらにあった。

2年間、自由な時間を持てて、そうした自分を客観視する時間を持てたことは有意義だったと思う。

逆説的だが、人間という生き物は1個の目的に集中するためには、逆に肉体的にも精神的にも遊びの部分を作っておく必要がある。特に若干精神的に過敏なところがある人間はそうであるようだ。

ヘッドフォンをつけて聞くのは語学だけ、という習慣を改め、学生時代に好きだった音楽を聴いて、遠慮なくそれを口ずさむ。週に一度は無理に時間をとってでも頭をカラにして思いきり体を動かし汗をかく。定期的に心から気の合う友人と会って酒を飲み放談する。仕事に直接関係のない話や本を虚心坦懐に聞いて読む。ボケーとテレビを眺める。映画や買い物や美術館や、一見無駄と思えるものでも、時間をとって、その間は頭をカラにして楽しむ。

そういうことを意識的に一月ほど続けて振り返ってみると、不思議なことにこちらの方が総合的な意味でのパフォーマンスはずいぶん高い。精神的にも肉体的にも健全で、前向きな姿勢で生きることができているからかもしれない。

「無駄」を甘受し仕事を忘れ「楽しむ」時間を意識的に作る。自分はいかなる意味でも仕事よりプライベートを大事にしたいタイプの人間ではないが、効率的に良い仕事をするには逆にそれと距離をとる時間が必要なことに遅まきながら気付き始めた。有能な経営者であるとか政治家であるとかは存外多様で奇抜な趣味を持っていたりすることが多いが、何となくその意味がわかるような気がしてきた。

これはある意味で徹底したリアリズムと言えるかもしれない。パフォーマンスを得るために、夢や情動や功名心や闘争心を一端脇において、「無駄」に時間を投入する。端的に言えば「メリハリをつける」ということだが、自然とそうできない人間は意外に多い。無理やりでも「メリハリ」をつけるように努めることが総合的な成果につながるとは正直意外な、もっと言えば理不尽な気さえするが、少なくとも私にとってはそれが真実であるようだ。まこと、自分をメンテナンスするのは難しい。

ということで、ちょっとした人生の「コツ」をつかんで、再びの東京生活は結構充実しています。書きたいことはその日のうちに書いておかないと忘れちまう上に気が抜けてしまうので、リサーチ系の記事とは別につらつらこういうことを書く機会を増やすことにしようと思ってます。そもそもブログってそういうものですしね。


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HN:
Ein Japaner
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男性
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趣味:
読書、旅行
自己紹介:
三度の飯より政治談議が好きな30間近の不平分子。播州の片田舎出身。司馬遼太郎の熱狂的愛読者で歴史好き。ドイツ滞在経験があり、大のビール党。
[12/16 abuja]
[02/16 einjapaner]
[02/09 支那通見習]
[10/30 支那通見習]
[06/21 einjapaner]

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