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望雲録

のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

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マッド・サイエンティストの原型(3)

 アメリカでのブラウンの最初の仕事はアラバマのブリス駐屯地での研究教育活動であった。ここでブラウンと彼のロケット開発チーム達はドイツから移送されたV2ロケットの再整備なども行ったという。外出には常にエスコートがつくなど、自由は制限されていた。1950年に朝鮮戦争が勃発すると、ブラウンは再び軍用弾道ミサイルの開発に従事することになる。red-stoneと称される米軍初の核弾頭搭載可能な弾道ミサイルである。軍用ミサイルの開発に精を出すかたわら、しかし彼の「宇宙有人飛行」の夢は一貫していた。彼は地元アラバマを拠点に積極的に宇宙飛行の実現可能性をアメリカ国民に訴えかけるPR活動を行った。出版講演活動はもちろん、ディズニーの宇宙冒険映画開発に協力したりもした。
 S-IC_engines_and_Von_Braun.jpg
1957年のスプートニク・ショックの後、米政界にロケット開発への機運が盛り上がり、翌年NASAが設立され米ソの宇宙開発競争が本格化する。こうした動きの中でロケット開発の第一人者であり、すでに先進的な宇宙開発専門家として名が知られ始めていたブラウン博士は、1959年NASAへの転属を命じられる。新設されたマーシャル宇宙飛行センターの初代所長として、ようやく思う存分夢の実現にまい進できる環境が整ったのである。
64371f72.jpeg ブラウンはケネディの打ち出したアポロ計画の実現に向け、大気圏外に衛星のような思い搭載物を運搬できるロケット技術の開発に心血を注いだ。彼が開発を手がけたロケットは「サターン」シリーズと呼ばれる。その第5世代であるサターン5号が、アポロ11号とそのクルー達を月面へと送り出したのである。1969年7月16日のことであった。ブラウン博士にとって、人生最高の瞬間であったろう。フォン・ブラウンと彼のチーム無くしては、これほど短期の月面着陸は実現不可能であったと言われる。(左はケネディ大統領と相談するブラウン。)
 
 アポロ計画がアメリカの宇宙開発の頂点であったように、ブラウン博士の人生もここで頂点を極めた。彼の次なる夢は火星への有人飛行計画であったが、宇宙開発に後ろ向きとなった米政府の十分な支援が得られぬまま、その後は特筆すべき業績もなく、関連の民間企業や研究所を転々としたのち、1977年に腸がんで亡くなった。65歳であった。

 夢に生き、それを自らの才覚と努力で実現した。それは間違いなく人類の進歩に貢献した、壮大な夢であった。良い人生だったとも言える。彼がその人生の節目節目で取った行動も、時代状況の厳しさを考えれば、非倫理的とまでは言えない。
 
 ただ自らの関心にのみ忠実な、没倫理的な人生とは言えるだろう。ナチスの闇に加担した過去と、宇宙飛行を夢見る子供のような無邪気さとが、同じ人間に共存したという事実は、考えようによっては名状しがたい不気味さを醸し出す。ナチス批判がかまびすしくなった現代のドイツでは批判的な見方が強い。
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自己紹介:
三度の飯より政治談議が好きな30間近の不平分子。播州の片田舎出身。司馬遼太郎の熱狂的愛読者で歴史好き。ドイツ滞在経験があり、大のビール党。
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