のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
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もう一ヶ月前の話だが、参議院選挙が終わった。当初「現実主義者」として人気を集めた新総理が、実は単なる「日和見主義者」であることが露見するまでにかかった時間は、想像以上に短いものだった。どうも民主党は、鳩山政権であれだけ手痛い教訓を突き付けられていながら、それから何も学ばなかったらしい。
言ったことは守る。守れないことは言わない。民主主義下の政治指導者のイロハだと思うが、沖縄問題に続き、消費税という国民生活を直撃する極めて機微な政治課題において、彼らはこれを守ることができなかった。半ば予想通りではあるが、民主党はやはり相当統治能力に問題がある。
醜いのは新政権のとってつけたような与野党協調路線、親官僚路線、党内融和路線である。昨年の選挙で国民が民主党に託したのは「変化」への思いと言って良い。ここに来て政権維持に心が傾き、あたりかまわず既成勢力に媚を売る政権に、誰が「変化」を期待できるだろうか。
政権交代の最大の意義が自民党の解体であることは以前触れた。民主党に統治能力がなくても、自民党の息の根を止めることができれば、それだけでこの国の政治は大きく変わる可能性がある。しかし自民党は参議院選挙の勝利で生まれた「ねじれ国会」に九死に一生を得た形である。求心力を回復した谷垣自民党を前に、政権交代を契機とした日本政治行政の抜本的変革は既に勢いを失いつつある。これでまた政策を軸とした政界再編の動きは遠のくことだろう。
唯一の好材料は「政策原理主義」政党たるみんなの党の政党支持率が急進していることだが、自民党の息の根が止まらない以上、次の衆院選前に与野党がそろって分裂する展開は考えにくい。次の選挙の時期も不透明である。
この国に余力がある時代ならば、こうした混迷も大きな変化の前触れだとして、腰を据えて長い目で見守ることもできたかもしれない。しかしもはや悠長に構えていられる状況ではない。財政危機はそうした日本の危機的状況をもっとも端的にあらわしている。政治においても持ち時間は決して無限ではないという当たり前の事実を、そろそろ我々も直視しなくてはならない。
五十五年体制下に全盛期を謳歌した守旧派の政治家たちは、「国民の代表」「国民の声」という言葉が大好きだ。この言葉の裏には色んな含意があるのだろうが、一つには常日頃から国民と直接対話する機会をふんだんに持つことで、国民の要望を吸い上げ、その感覚を理解し、民主主義におけるパイプ役を果たしているという自負、二つには、少しシニカルな見方だが、政策形成能力を霞が関に全面委託してきた劣等感の裏返しでもあるのだろう。
自民党の長期政権の下においては、それで大きな問題はなかった。対抗勢力のいない永田町を拠点に社会のあらゆる分野に触手を伸ばし根を張ってきた自民党にとっては、「(与党である)自民党支持者の声」と「国民の声」に大きな「ズレ」はなかった。その意味で地元で自らを囲む支持者たちの声に真摯に耳を傾け、彼らに素朴な利益を斡旋仲介してやれば票は獲れた。豊かな日本の経済成長の果実が、その歪んだ構造を可能にした。
この「ズレ」はすでに90年代の初めから少しずつ明らかになり始めていたのだと思う。ただ、自民党の死が突然ではなく実に緩やかに進行したことが、これら政治家に事態の深刻さを気付かせる契機を奪った。一部の鋭敏な感覚を持つ政治家たち―それは大抵政策に通じ、党内で異端と捉えられていた政治家たちである―は、この地殻変動に気づき、「改革」を試みたわけだが、党内政治においてそれは大きな支持を広げるに至らなかった。結果、昨年の夏、自民党は劇的な形でその報いを受けた。
民主主義が選挙民の「声=票(Stimme)」を巡る闘争である以上、その「声」への感度を失った政治が生き残る術はない。そしてその感性でもって社会のあらゆる領域の「声」を掘り出し、組織化することで自己の権力基盤の強化につなげていくのが五十五年体制下の自民党の真骨頂だったわけである。
しかし今の自民党は、これだけ明白な形で国民から否を突き付けられた後でも、相変わらず自分たちと運命を共にする(あるいはしてきた)支持者たちの声にしか耳を傾けていない。悪いことに先の選挙で生き残ったのが守旧派の政治家ばかりだったこともあり、捻じれた成功体験が党全体としての世論への感度を鈍らせてしまっている。
この落胆は今回の「与謝野新党」の動きを見て一層深いものになった。厳密にいえば彼らはもはや自民党の人間ではないのだろうが、彼らの行動を支える内在的論理はやはり五十五年体制下の政治家のそれだと言えよう。彼らは財政再建のための増税や郵政民営化という、五十五年体制を象徴するような政策軸の相違を棚上げにして、「新党」の響きだけで国民の声を得ることができると本気で考えているのだろうか。
「第三極」という言葉で非自民、非民主の新党を立ち上げればどこからともなく「風」が吹き、国民の支持が得られると思っているのなら、それは大きな過りである。「みんなの党」が支持を集めているのはそれが単なる「第三極」だからではない。自民でも民主でももはや実現を期待できない新保守・新自由主義的の単純明快な政策の対立軸を固め、小泉構造改革路線の唯一の継承者としての認知度を高めているからである。
政策的にいえばまさしく与謝野氏と谷垣氏との間にほとんど違いはない。二人とも小泉政権では財務官僚寄りの財政再建派として存在感を示していた。平沼氏はお馴染み反郵政民営化の旗手であり、国民新党に合流すべき位置づけである。
自民党の政治家達が今力を注ぐべきは、自分たちのアンテナの故障を正面から認め、野党としての新たな票田を求めて再チューニングを行うことである。国民が望んでいるのは90年代初頭のような上っ面の新党ブームや離合集散ではない。この国の古ぼけた権力構造を遥か天空から打ち落とし、地上に叩きつけて粉砕することである。小泉政権の時代から連綿と続くこの大多数の無党派層のフラストレーションを未だ正面から受け止めることができず、ピントのずれた「第三極」を演出すれば票を集められると安易に考えているとしたら、この国の五十五年体制下の政治家たちが誇るところの「政治感覚」なるものの質も、もはや末期の状態にあると言わざるを得ない。
以上のような前提の上で、「社会科学の中で、相対的に、最も網羅的に人間の社会活動を分析し、説明しうる学問とは何か」と言う問いを、あえて立ててみたい。
もし陳腐な回答だとして読者を落胆せしめたのならご容赦こうむりたいが、私はそれは経済学ということになると考えている。
グランドセオリーというのは、一本の理論構成でもって、より広い世界の事象を統合的に説明できる理論のことを言う。自然科学の世界では量子力学の不確定性理論とニュートンに端を発する古典的物理学とを矛盾なく同時的に説明できる理論が構築されれば、それは物理学における「グランドセオリー」である、という議論がなされる。(間違ってたらすいません。)
人間社会の解析において、単発の理論的武器で以て、古今東西のより広範囲の(所詮、「より」でしかないのだが)事象を説明できるだけの一定の普遍性を備えているのは、現在のところは経済学であると思う。
政治学の理論というのは、大学の学部レベルでもいくつか学ぶわけだが、米国のモデルをヨーロッパに持ち込んだだけで即破綻、膨大な捕捉説明が強いられて事実上使い物にならないという類のものが多い。政治という営みは、どこまでも地域性時代性に縛られていて、そうした属物的価値を超越したところにこそ価値がある「理論」という地点に昇華できるだけの普遍性と理論性とを兼ね備えた法則性を導き出すことはどうもうまくいかないように見える。
近年のいわゆる「ポリサイ」はだいぶ数学化が進んできていると仄聞しているが、単に数字にすれば普遍化できるというのは単なる幻想ではないか、という思いを強く抱く。
政治と言う現象面から眺める人間は、不可解極まりない。
それは一面において人間の動物的側面が最も露骨に表出する現象であり、他面においては人間の理性的側面が輝かしいばかりの光彩を放つ現象である。さらに言えば動物的本能が神にも見まがうカリスマを作り上げ、理性のあくなき追求の果てに数千万の屍を荒野にさらすような、危うい営みである。正直、この営みが我々の生存に必要があって生じているのかそうでないのか、つまりは種の保存という目的に合理的になのかそうでないのかすら、はっきりしない。
政治と言う営みは確かに我々人間の本質的営みの一端をなしているが、しかし、それは霞のように茫漠としていて、とっかかりが見当たらない。歴代の政治学者たちは「権力」や「支配」の理論を構築し、この営みに一定の顔形を与えようとしたが、対象は常に鵺のように変幻自在で、捉えきれたためしがない。
対して、経済学という学問は、「人間は合理的(功利的)存在である」という、あまりにも一面的な、しかし捉えようによっては大胆な前提から論をはじめる。さらに「経済活動」という、近代以降の人間一人一人を有無を言わさず絡め捕る行動様式の在り方をその分析対象に据える。
その意味で、経済学はいわば人間としての根本的な生存のための必要条件に関わる主題にスポットライトを当て、軸足を置いたことで、(あくまで相対的であるにすぎないのだが)他の社会科学と比べ、一定の普遍的地位を獲得することに成功したのではないかと思っている。
今日はもう眠くなったので、続きは後日。
不思議と休日よりも平日の方が「書きたい」欲求が高まる。
組織人として一日中人と顔を突き合わせて仕事をして帰ってきたときにふと訪れる一人の時間、とりわけ晩酌で気分良くホロ酔いになった時などは、自分の中で樽詰めにされ熟成されていた内的思考のエキスが何かの拍子にコルク栓を弾き飛ばして勢いよく外部に噴出する。そのエキスは揮発度は極めて高1ku
、酒に鈍りはじめた頭の芯を置き去りにして脳膜を小気味よくシュプールをえがきながら滑走する。といって軸取りはプロのようになめらかな安定感があって、決して無様な転び姿とともに白雪を舞い上げたりはしない。
小説家ならば一気呵成に仕事にとりかかるべき頭の釜の温まり具合だろう。無論、こういう頭はちまちまと外国語を読んでリサーチをするための頭ではない。
「社会学にグランドセオリーはありうるか」という、アカデミズム的には少しスケールの大きな話をしてみたい(実社会的にはどうでもいいこと極まりないが)。
科学の定義が「真理の探求」にあると厳密に定義した際、社会科学の価値は自然科学の価値の百分の一(万分の一?)もないというのが私の持論である。
「真理」が「真理」たり得るには、「斉一性」と「予測可能性」が決定的に重要となる。すなわち、「同じ条件と環境を用意すれば、世界のどこでもいつでも、常に等しい結果が得られる」ということである。自然科学はある「仮説」がこの真理の要件を充足しているかどうかを試すべく、様々な人工的な条件下で「実験」を繰り返すことで、その仮説が「理論」≒「真理」として成立するかを客観的に検証することができる。人工的な環境を設定し、「実験」をそれこそ無限に繰り返すことができるというのが、恐らく自然科学が社会科学と決定的に異なる前提条件である。(もっとも、多くの自然科学の理論はこの「真理」の要件を一定の条件下では満たさないことの方が多い。その矛盾を更なる実験で以て検証し、より高度に精緻な理論化に挑むのが自然科学者のレゾンデートルである。)
対して、社会科学は、政治学も経済学も社会学も、その根底の基盤として、「歴史」にしかよるべきものがない。人間社会を対象とする以上、一定の理想条件下での「実験」を繰り返し精緻な検証を繰り返すだけの術を、社会学者たちは端から与えられていない。彼らは別の「歴史学」というこれまた不確実な学問のフィルターを通してしか知り得ない人間の有限の「歴史」を材料に、条件設定の極めて不十分な過去の実例を引用しながら、砂上の楼閣を積み上げているに過ぎない。その気になれば「実験」によって何千回、何万回と反証の嵐に理論をさらすことができる自然科学とは、根本的な性質が異なる。
社会科学の実務家ー政治家や官僚ーは、それが砂上の楼閣であることをよく心得ている。
また、学者でも多少は大人な人物であれば、社会科学と自然科学と同列に論じることはしない。むしろ、彼らが研究の過程で得た人間や民族、国家に対する多分に直感的な「洞察」「叡智」(≠「理論」)こそが、真理という価値を離れ、「知恵」「教訓」という形で、人間社会と実務家の意思決定とに貢献しうることを悟っている。そして、そうした姿勢は象牙の塔にこもる訓詁の徒よりも、実務家に歓迎される。しかしこの関係は常に緊張をはらんでいて、実務家に近すぎる社会学者というのは往々にして実務家の利害に引きずられ、また阿るために、その洞察力が曇りがちになる。いわゆる「御用学者」の問題は、よるべき「真理」の極めて脆弱な社会科学者にとって、より深刻な問題である。「正しいから正しい」と言い切るだけの強固な論理的基盤が、社会学者には欠けているのである。
結局、社会科学者がどこまでまっとき意味で「科学者」になれるのかという問いに対しては、私はどちらかと言えば常に白けた視線を向けている人間である。社会科学者はどうあがいても自然科学者と同様の意味で「科学者」の称号を得ることはできない。それは彼らの能力の問題ではなく、選んだ研究対象の分野の問題である。その限界を背負いながら学者としての職業的召命に従うべく学究としての日々を生き抜くのは、想像以上に困難なことだろうと思う。
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