のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
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以上のような前提の上で、「社会科学の中で、相対的に、最も網羅的に人間の社会活動を分析し、説明しうる学問とは何か」と言う問いを、あえて立ててみたい。
もし陳腐な回答だとして読者を落胆せしめたのならご容赦こうむりたいが、私はそれは経済学ということになると考えている。
グランドセオリーというのは、一本の理論構成でもって、より広い世界の事象を統合的に説明できる理論のことを言う。自然科学の世界では量子力学の不確定性理論とニュートンに端を発する古典的物理学とを矛盾なく同時的に説明できる理論が構築されれば、それは物理学における「グランドセオリー」である、という議論がなされる。(間違ってたらすいません。)
人間社会の解析において、単発の理論的武器で以て、古今東西のより広範囲の(所詮、「より」でしかないのだが)事象を説明できるだけの一定の普遍性を備えているのは、現在のところは経済学であると思う。
政治学の理論というのは、大学の学部レベルでもいくつか学ぶわけだが、米国のモデルをヨーロッパに持ち込んだだけで即破綻、膨大な捕捉説明が強いられて事実上使い物にならないという類のものが多い。政治という営みは、どこまでも地域性時代性に縛られていて、そうした属物的価値を超越したところにこそ価値がある「理論」という地点に昇華できるだけの普遍性と理論性とを兼ね備えた法則性を導き出すことはどうもうまくいかないように見える。
近年のいわゆる「ポリサイ」はだいぶ数学化が進んできていると仄聞しているが、単に数字にすれば普遍化できるというのは単なる幻想ではないか、という思いを強く抱く。
政治と言う現象面から眺める人間は、不可解極まりない。
それは一面において人間の動物的側面が最も露骨に表出する現象であり、他面においては人間の理性的側面が輝かしいばかりの光彩を放つ現象である。さらに言えば動物的本能が神にも見まがうカリスマを作り上げ、理性のあくなき追求の果てに数千万の屍を荒野にさらすような、危うい営みである。正直、この営みが我々の生存に必要があって生じているのかそうでないのか、つまりは種の保存という目的に合理的になのかそうでないのかすら、はっきりしない。
政治と言う営みは確かに我々人間の本質的営みの一端をなしているが、しかし、それは霞のように茫漠としていて、とっかかりが見当たらない。歴代の政治学者たちは「権力」や「支配」の理論を構築し、この営みに一定の顔形を与えようとしたが、対象は常に鵺のように変幻自在で、捉えきれたためしがない。
対して、経済学という学問は、「人間は合理的(功利的)存在である」という、あまりにも一面的な、しかし捉えようによっては大胆な前提から論をはじめる。さらに「経済活動」という、近代以降の人間一人一人を有無を言わさず絡め捕る行動様式の在り方をその分析対象に据える。
その意味で、経済学はいわば人間としての根本的な生存のための必要条件に関わる主題にスポットライトを当て、軸足を置いたことで、(あくまで相対的であるにすぎないのだが)他の社会科学と比べ、一定の普遍的地位を獲得することに成功したのではないかと思っている。
今日はもう眠くなったので、続きは後日。
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