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望雲録

のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

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坂の上

 昨年から「年末スペシャルドラマ」としてNHKで放映中の「坂の上の雲」。単純にドラマとして見ても、よくできてるなあーと感心させられます。完成度が高いです。

 先週とうとう子規が死んでしまいましたが、原作ではこれは単行本全8巻中、3巻の冒頭あたりです。司馬自身がこの子規が死んだ次章の冒頭、「この小説をどう書こうかということを、まだ悩んでいる」として、このあたりからこの作品は「青年群像劇」的な性格から大きく旋回を始め、司馬流「軍記物語」的な性格を色濃くして行きます。満州戦場におけるロシア陸軍との対決などはあまりに個々の戦闘の解説描写が詳細すぎて、もはや「小説」とは言えないシロモノになって行きます。

 これはドラマ化する側にとってはかなりの難関でしょう。今までの世界観を壊さないためには、原作の記述を思い切って切り捨てつつ、あくまで秋山兄弟を中心に、ドラマ独自の味付けをどんどん増やしていく必要があります。製作陣の力量がいよいよ本格的に試されるフェーズに入ってきたと言えるでしょう。

 それはそうと、私みたいな人間が普通に見てるとやはりだめですね。ボロボロ涙が流れてきてとまりません(笑)。ええ時代やなあ、こんな時代が日本にもあったんやなあという思いを抱かずにはいられません。

 どれだけ史実に忠実であるかという議論はさておき、私にとっての「明治」のイメージは「坂の上の雲」をはじめとする司馬作品に負うところが非常に大きいです。司馬は明治という時代を表現するときによく「楽観主義」「オプティミズム」という言葉を使います。それは実際の生活水準、国民所得や平均寿命という客観的経済指標の問題ではなく、文字通り時代の空気として、多くの人間が、ある意味根拠のない、しかし空気のように実在する「未来への期待」を持って生きることができた時代ということであり、その意味で幸福を感じることができた時代ということなのだと思います。

 職場の上司の話を聞いていても、50代、60代の幹部達というのはなんとなくネアカな人たちが多いように思われます。彼らの無邪気な語り口はやはり高度経済成長という楽天主義の時代に生きた世代ならではのものがあるように思えます。時に「お前らが日本をだめにしたんだぞ!?」とその危機感と責任感のなさにイラっとさせられることもありますが、一面、未来を明るいものと信じられる時代に生まれた彼らを羨ましく思うこともしばしばです。

 あくまで私の印象論ですが、少なくとも今の日本がそういう意味で「坂の上の雲」を信じて無邪気に上へ上へと進んで行けるような時代ではなくなっていることは確かだと思います。どちらかというと、なんとなく皆が未来への不安を共有しながらも、妙な諦念と開き直りを盾に現実から目をそむけつつ、次第に闇を増す緩やかな下り坂を、ゆっくりと下って行くような風景のように見えてしまいます。

 毎週毎週「生まれる時代を間違えた!」と歯ぎしりすることしきりですが(笑)、そういう明治の先人たちの夢と努力と犠牲の積み重ねの上に今の日本という国がある、決してこのまま朽ちるに任せてよいものではないと、自分を納得させる毎日です。

 土砂降りの中、目をこらして雲の切れ間を必死で探しつつ、足場の悪い胸突き坂を何度も転んで泥まみれになりながらよじ上っていく。

 それならまだ、絵にならないこともないと思います。

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バクマン。

自分、実は結構マンガとかアニメとか好きだったりするんですが、「バクマン。」いいですね!!

NHKでアニメ化されてますが、今週放送話の服部編集員の最後のセリフとかかっこいいです。

「新妻君に勝つつもりで…いや、勝て!絶対に負けるな!」

「はい!!」

何でもいい、「夢」や「理想」を持ってまっすぐ進んでいく人間の姿はどの分野でもいつの時代でも美しいです。現実の重みを前に、「諦念」を「大人であること」と割り切る人間が多い社会よりも、こういうある意味無鉄砲な若者が溢れている世界の方が、本当の意味で「活力のある」社会なんだと思います。

信じるもののためにリスクを取りましょう。今の日本ではよほどのことがない限り路上で飢え死にしたり、斬り捨てられたりすることはありません。「志士は溝壑(こうがく)にあるを忘れず」という時代と比べると、相当リスクが低くなっているのは間違いないです。失敗しても何とかおまんまにはありつけます。

こういう多少汗臭い要素のあるマンガがまだ受け入れられる土壌があるというのは、結構勇気づけられる思いがします。

不器用に、汗臭く、見苦しく、泥中をもがいて力を惜しまない。そういう若者が集まれば、きっと何かが変わるはずです。変わらなければ、この国に未来はありません。みんなで、リスクを取って、変わりましょう。変えましょう。

国会情勢など

 国会中継をぼんやり眺めている。参議院・予算委員会である。政府席には内閣総理大臣以下全17人の大臣がずらりと着席する。今日の議題は平成22年度補正予算案である。開催時間は9時から17時まで。当選1~2回の若い議員が総理や官房長官相手に一方的に質問を浴びせる。国務大臣側に反論の機会はない。答弁に対し正面から答えなかったり、反論したり、長々と自説を振るおうものなら、すぐさま「やめろ」「聞いてない」「質問にだけ答えればよい」と野次が飛ぶ。質問の内容は、と言えば、補正予算案の内容を精査するものでは全くない。人権について聞くもの、就職支援について聞くもの、尖閣について聞くもの、TPPについて聞くもの、種種雑多である。もちろんもっとも盛り上がるのはくだんの法務大臣辞任問題である。予算委員会はNHKの中継がなされる場合も多い。補正予算案の審議においては少なくとも2週間(衆参一週間ずつ)、ほぼ毎日この委員会が開催される。答弁する大臣もしない大臣も一律に行儀よく着席し、質疑に対応せねばならない。当然のことながら予算委員会の開会中、行政の長としての大臣の機能はほぼ停止する。役人たちは早朝夜に必死で予定を詰め込むが、絶対的な時間がどうしても不足する。

 如何ともし難い、日本国憲法第63条には、国務大臣の国会出席義務が定められている。国権の最高機関たる国会に呼ばれた国務大臣はそれを拒むことはできない。議院側の「理解」と「寛容」によって、記者会見や外交日程のための短時間の退席を認められるのがせいぜいである。一日8時間、仮に自分に関連する質問が一つもなかったとしても―そういうケースは決してまれではない―大臣は議院に拘束される。通常国会では、これが一か月近く続くこともまれではない。

 行政府の長たちを顎ひとつで呼びつけ、テレビの前で一方的に糾弾しつるし上げる快感と政治的意義は、日本国憲法の該当条項を基盤に55年体制下で培われてきた野党対策の一環としての側面が強いのだろう。万年与党たる自民党政権は、圧倒的な数の優位を背景に、野党に対して様々な議事手続面での対抗手段を許容してきたが、いわゆる「大臣総取り」、「一方向質問権」、「質問内容の非拘束」等々、議会の行政府への優位を象徴するような様々な規定は、その重要な一翼を担ってきたのだと思う。

 政権与党の力が絶対的な時代は、それでもよかった。しかし政権交代が現実のものとなり、「ねじれ」が常態化する中で、これらの制度慣習は国会の「会期制」の問題と並んで、野党にとってアンバランスに有利なシステムとなってしまった印象がある。

 柳田大臣の発言は少なくとも「脇が甘かった」とは言えよう。その大臣としての資質を特に擁護するつもりもない。ただ、地元に帰った時に自虐がてらに「二つの答弁があれば済む」と放談するその心境の裏には、不必要に国会に貼り付けられ、詐欺と恫喝まがいの質問者相手に「忍」の一字でただただ低姿勢の答弁でやり過ごさざるを得ず、結果として十分に所管分野の政策を遂行する時間を確保することもできない、大臣たちのやり場のないフラストレーションの蓄積があるのだと思う。「国会軽視」の美名の下、本来国民に対して全面的に投入されてしかるべき様々な行政リソースが、半ば無駄な形で立法府というブラックホールに投下されている現状については、もう少し広く問題意識が共有されるべきであると思う。

 それは確かに巷間言われるところの「民主主義のコスト」ではある。ただコスト大きさゆえに国が倒れてしまっては本末転倒である。

腐り行く肢体

以下、Yaoonewsの記事。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101121-00000001-mai-soci

自分も氷川台近辺の住人なので、こうした記事が出るとある意味ショックではある。

 数か月前、既に死亡していたはずの独居老人に年金が振り込まれ続けていたことが一種の社会問題としてとりあげられていたことがあった。普段は日本のニュースなど見向きもしないドイツメディアがこの話を取り上げていたのを見て、軽い驚きを覚えたことを記憶している。

 政治行政の能力に限界はある。現在の市町村の民生委員をはじめ、末端の職員たちがどれだけ多くの負担を背負わされているかにについては、大いに理解しているつもりである。この責任をすべて政治行政に帰するというのはあまりにも酷だろう。むしろ、戦後という時代の中で無邪気に提示されてきた社会モデルの矛盾が、ここに至って生々しい形で提起され始めたと言うのが妥当な解釈だと思う。

 都市部において今後累次の事案はどんどん増えていくことになるだろう。個人主義を至上の価値ととらえ、共同体を解体し、家という価値を蔑視し、個人が個人としての幸せを最大化することを人生の意義と規定した戦後民主主義の価値を貫く以上、これは避けられない結末である。

 問題はそうした価値観の解体に対応してしかるべきセーフティネットを整えること見過してきた政治、それを許してきた国民にある。

 「腐り行く肢体」は、我々が今後100年、200年の長期にわたり対処し続けなければならない最大の課題を端的に示している。ワイドショー的な情緒的な忌避的感、安易な責任転嫁で片づけて済む話ではない。

 政治行政においては財政負担のあり方を含め、生々しい議論を避けない覚悟こそが求められる。リアルな「金」の流れを軸とした受益と負担の議論なくして、今後の社会保障制度、高齢者福祉問題の全体像は描くこことはできない。どうか、そこから逃げない、目をそむけない、建設的な議論の進展を望みたい。


最近の仕事

 最近、ちょっと忙しいです。

 最初のうちは自分がやってる仕事が新聞にでると「おー」とか思ってましたが、新聞にでるということは当然それなりの対応が求められるわけで、またそれを読んで関心を持たれたいろんな方から問い合わせがあったり呼び出しがあったりするわけで、仕事の量というのはまさしく指数関数的に増大していくわけです。そのうち新聞記事を見つけると「またかー」と悲鳴を上げるようになり、それより忙しくなるとそもそも記事を全てフォローする暇もなく、その関連の仕事をやっているにも関わらずメディアどころか主要六紙の動向すら全く把握できていないという状況に陥ります。

 いや、以前は世間の注目を集める仕事をするのはきっと楽しいだろうと思ってましたが、で、実際確かに楽しくて、学ぶところは非常に大きいんですが、2か月3か月とそんな状態が続くとさすがに少し辟易してきます。実際自分がやっているのは、その仕事の末端の末端の雑用係なのでなおさら。。。

 うちの業界では「月の残業300時間経験して一人前」みたいなことが言われますが、その2/3にも達していないのに、すでに「そろそろ限界かも」と感じてしまいます。何より「寝たい」わけですが、休日うっかり思いっきり寝てしまうと、20時間コースとかになってかえって疲れがたまったりするわけで、やはり規則正しい生活ができないとどれだけトータルの睡眠時間を平準化しても人間疲れます。「体が資本」という金言を噛みしめている今日この頃です。

 でもまあ、終わってみると(いつ終わるのか見当つきませんが)、きっといい思い出になるんでしょう。将来年取って部下相手に飲み語りをする時には、きっと今やってる仕事のことを嬉しそうに話すようになるんでしょう。鬱陶しいことこの上ない上司かもしれませんが。。。

 そう信じて、今日もこれから職場に向かいます。


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HN:
Ein Japaner
性別:
男性
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趣味:
読書、旅行
自己紹介:
三度の飯より政治談議が好きな30間近の不平分子。播州の片田舎出身。司馬遼太郎の熱狂的愛読者で歴史好き。ドイツ滞在経験があり、大のビール党。
[12/16 abuja]
[02/16 einjapaner]
[02/09 支那通見習]
[10/30 支那通見習]
[06/21 einjapaner]

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