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望雲録

のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

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正月の空気

 私は2007年の夏から2009年の夏まで日本を離れていたので、正月は2年振りということになる。

 別に年末年始、何をしたというわけでもなく、実家で炬燵にあたってゴロゴロしていただけなのだが、それでもこの国の正月の清冽な空気は、なまぬるい我が家の座敷にもどこからか隙間を見つけて入り込んでくるようで、年を越すと去年一杯に降り積もった心の垢が多少なりとも落ちた気持ちにさせられる。まことに不思議というほかない。

「『お若くなって、おめでとうございます』というあいさつは、古くは、民衆のあいだで、正月に交わされていた。正月になれば一つ老いが重なるはずだのに、そこにイデアが設けられて、年があらたまるとともに逆に人も自然も若くなるというのである。」
(司馬遼太郎『この国のかたち 五』「神道(三)」) 

 正月には、他にも若水、若松、若緑など、こうした「若さの再生」にちなむ言葉が多い。年が明けさえすれば、また去年とは異なる新しい始まりが切られる。私自身、去年は仕事の面でもプライベートの面でも色々考えさせられることが多い年であったが、もやもやした感情を一旦リセットして新しい気持ちで事に臨んでいくことができる契機が一年に一度与えられるというのは、やはりありがたいものである。

 一方で、年を越しても変わらないものがある。

 去年今年 貫く棒の ごときもの(虚子)

 年が新しくなるからといって、それはもちろん積み上げた去年と言う一年全てを捨て去ってしまうということではない。引き継ぐべき、貫きとおすべきものは、精神のありようという抽象的なものから日々の習慣や積み残した仕事上の課題という具体的事象にいたるまで、実に多く存在する。

 私はこれらの一見矛盾する考え方が、二つながらに好きである。いずれも年が変わることを契機にして、自分の越し方行く末を再考するよすがを与えてくれる。一年の塵を落とし棚卸をするための気分と時間を、正月は与えてくれる。

 今年の年末年始は久し振りに実家に長逗留したが、その間、東京に来る前の自分について、少しばかり再確認をしてみた。高校まで自分が書いた絵、文章、当時の顔写真、友人たち、読んでいた本、マンガ、聞いていた音楽。母親に自分の子供時代の話や、母方の祖父や曾祖父の人となりと自分との関わりについても、あらためていろいろ話してもらった。
 昔の自分を、改めて自分の記憶以外の資料から再構築してみると、意外なところで自分を規定している性質を再発見したり、克服したと思っていた感情が別の形でおかしな芽を出していたのではないかという事実に気がついたりで、想定以上に新しい発見がいろいろとあった。

 無論ポジティヴなものばかりではない。正直にいえばむしろその逆の方が多いのがこういう作業の常なのだが、全体として自分が確実に前に進んでいることは実感されたし、また新しく、前を向いて歩くための課題が割と明らかになったという意味では、この上なく有益だった。

 焦らずおごらず、今年一年、大事に使っていきたいと思う次第。

 ということで、今年もなにとぞよろしくお願いいたします。

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Merkel und ihre Kollegen~車椅子の老兵(1)

 日本では年の瀬が近づいていることもあって鳩山政権100日のレビューが盛んである。実はドイツでも10月の新政権成立以来政治的には面白い出来事がたくさんあったのだが、現地で気軽にドイツ語の情報に手を伸ばすことができない現状ではどうしてもドイツ関連のエントリーをまとめるのは時間がかかるので、怠け怠けてここまで先延ばしにしてきてしまった。

 このブログのそもそもの読者層はドイツに興味がある人たちであり、最近ドイツ関係の記事が少ないじゃないかとのご指摘?も頂いてしまったので、今回から断続的ではあるが現メルケル政権の閣僚を一人一人紹介していく形で現在のドイツ政治の課題をおさらいしておくことにしたい。

 ちなみにドイツにおいては一旦首相の手により大臣が任命されその所掌分野と大方針が指定された後は、基本的にその政策における第一義的な責任は大臣が負うという原則が強い(Ressortprinzip)。現在のメルケル首相が調整型の政治家であることも相まって、基本的に重要政策においてスポットライトを浴びる存在はその所管の大臣であるというのがドイツの政治文化であり、従って大臣ごとに政策を追っていけばそれなりに網羅的なレビューが可能になるのではと思う。

1733631728-wolfgang-schaeuble_9.jpg ということで、まず一番手はヴォルフガンク・ショイブレ(Wolfgang Schäuble、CDU、1942-)財務大臣である。

 現政権の最重要課題の一つが、連立相手であるFDP(自由民主党)が主張する減税政策と経済危機に対応するための財政出動とのバランスをどのように取るのか、膨張する財政赤字の健全化に向け、どういった具体的な筋道をつけていくのかという問題である。
 このコワモテの保守政治家は前政権では内務大臣を務め、テロリスト対策のためにインターネット上の網羅的な情報捜査や予防拘禁を可能にする法案を提出したり、ハイジャックされた民間航空機をドイツ連邦軍の投入により撃墜できるような憲法改正を行うべきとの主張を行い、ただでさえ左翼的なドイツ世論から強い批判を浴びた。

 いわばメルケル政権の憎まれ役を演じ続けてきたわけだが、意外なことに世論調査での彼の政治家としての評価は決して低くない。一貫した保守的信念でもってブレない政策を遂行してきたことが評価されているのだろう。

 今回のメルケル政権の人事のうち、このショイブレ大臣の横滑りは最大のサプライズであると受け止められている。ただ、連立相手からの減税要求をはねつけ、国民から不興を買うことも覚悟で財政再建路線を断行するという点においては、これほど適任な政治家はいないという、概ね肯定的な評価がなされた。

 ショイブレはおそらく典型的な古い型のCDU政治家であり、今回のメルケル内20040312W6.jpg閣においても唯一の戦前生まれで、突出して高齢である。かつてはコール政権後のCDUを担う首相候補として権勢を極めたが、献金問題で躓き、当時無名だったメルケルに党内の主導権を握られた。しかし彼の政治的キャリアはそこで終わらず、いわばCDU政権のご意見番的な位置づけとして、重要な政策課題を持ち前の頑固さでこなし続けている。

 憮然とした表情と語り口、誰の手も借りず自分で車いすを転がし、静かに去りゆくその後ろ姿は、まさしく「老兵」と呼ぶにふさわしい風格を備えている。


元首の政治利用(3)

 その観点からは、今回の民主党政権の対応は、拙劣極まりないものであったと言わざるを得ない。
 
 なるべく「一ヶ月ルール」の趣旨を傷つけない形で、習副主席の特例会見を実現する知恵はいくらでもあったと思う。事務方の技術的なミスということにしてもよい。そもそもこのルールの存在自体、この事件以前に知っていた人間がそれほど大勢いたとも思えない。この騒動に油を注いだのは、間違いなく羽毛田宮内庁長官と小沢一郎幹事長の、二つの記者会見であったと思う。

 14日の記者会見で小沢幹事長が示した、
天皇陛下国事行為は内閣の助言と承認で行うことだ。それを政治利用だとかいったら天皇陛下、何もできないじゃない。内閣に助言も承認も求めないで、天皇陛下が勝手にやんの?」

という見解は、天皇に主体性などない、内閣の指示に従っていればそれでいいと言わんばかりの物言いである。憲法の解釈はともかく、問題は天皇は一個の主体として政治から超越した独自の領域を作りあげており、そこには圧倒的な国民の支持があるという事実である。小沢幹事長の発言は、法律論として突き詰めればそうかもしれないが、字義通りにそれを押し進めていけば、天皇は単なる操り人形の地位に貶められ、その権威を失いかねない。
 
 また、
天皇陛下ご自身に聞いてみたら『手違いで遅れたかもしれないけれども会いましょう』と必ずおっしゃると思うよ」

という発言も、かなりきわどい。陛下の意図を勝手に忖度し、それを以てルールの例外化の根拠とするというのは、天皇に対中外交の重要案件の事実上の決定権を委ねると言っているに等しい。天皇制の抜本的変質に繋がりかねない発言である。
 
 小沢幹事長は、一ヶ月ルールを超えて、本気で天皇を従来の自民党政権とは異なる方針で利用しようと考えていたのだろうか。それに伴う天皇制の毀損を上回る、大きな国益が得られるという政治判断があったのだろうか。それを実行するに伴う、巨大な政治的リスクを考慮したのだろうか。
 
 そうではなかろう。事の真相は単なる感情的な記者との売り言葉買い言葉である。しかし、本来は局地的な政策判断の問題である一ヶ月ルールの問題を、天皇制をめぐる一般論に不用意に繋げてしまったことは、民主党政権が単なる1ルールの運用の問題に留まらず、天皇制の毀損というマイナスを顧みずに、今後もなし崩しに天皇の政治利用を進めていくのではとの懸念を生み出さざるを得なかった。
 
 問題を一ヶ月ルールの運用に絞り、謙虚な態度で「ルールを破りまことに心苦しいが、政治的重要性に鑑み…」と主張していたら、問題はこれほど大きくなっただろうか。これほど老練の保守政治家が、なぜ天皇制そのものを議論の俎上に乗せることがはらむ政治的リスクを理解していなかったのか、正直理解に苦しむ。

 一方で、小沢幹事長の羽毛田宮内庁長官への批判は、感情的ではあるが、正鵠を得ている。
 
 この人物は過去にも何度か天皇や皇室の在り方に関する意見を述べ、物議をかもしたことがある。私は彼の行動は、高度な専門知識を根拠にしたプロフェッショナルとしての使命感から来るもの、という文脈では捉えるべきでないと思う。羽毛田長官は皇室の専門家でも何でもない。彼の「反乱」の根拠は、宮内庁長官という、皇室事務の所管官庁の長としての皇室との距離の近さ、それにかかる情報の独占という一点にしかない。

 一厚労官僚が天皇とマスコミの間に立ち、あたかも自分一人が正統な天皇制の擁護者であるかのように、天皇を取り巻く制度や事情に関し個人的な見解を公の場で垂れ流す。(自分が思うところの)皇室の在り方、天皇の意思を体現していれば、例え内閣が相手でも独立的に行動し意見を述べて構わないという発想は、内閣の意向を無視しもの言わぬ陛下の意向を体現していると称して暴走した、軍部を含む戦前の「天皇の官吏」達の発想と、構造的には何ら変わるところがない。

 役人が仕える対象は国家であり、具体的には民意を受け成立した政府なのであって、断じて天皇ではない。今回の騒動は羽毛田長官の記者会見で政府部内での機微な調整過程を意図的に表沙汰にしたことで波紋が大きくなり、結果的に日本の外交政策、皇室政策双方を大きく傷つけた。羽毛田氏個人の信念、陛下への忠誠心には共感の余地があるかも知れないが、役人としての彼の行動は政府部内の統一的な政策遂行を混乱させたのみならず、戦後の民主主義の理念に真っ向から反逆しかねない危険性をはらむものであり、厳しく糾弾、処罰されて然るべきものである。
 
 結果として、今回の「特例会見」は、苦労してルールを例外化して実現したほどの意義、リターンとしての国益がもたらされたのかどうか。一連の騒動で日本国民の「民主党対中弱腰外交」への反発が相当高まったことに疑いの余地はない。この騒ぎを見た習近平副主席の対日感情が好転したとも思えない(もっとも、それは彼の狙いとは無縁かもしれない。)。
 天皇制という極めてデリケートな問題にはらむリスクを正しく認識せず、その扱いを間違えたことが、回り回って外交政策の失敗につながったと言ってよい。今後、民主党政権はいつまた火を噴くか分からない国民の反中感情に後背を脅かされながら、恐る恐る外交を進めなくてはならない。
 
 私は天皇や皇室を聖域化する気は全くない。それは日本国の制度の一つであり、断じて国益そのものに先立つものではない。私は今上陛下という個人に対し強い畏敬の念を持っており、皇室を維持すべきとの考え方も強く支持するが、全ての日本人が同じ思いだとは思わない。日本の国益から考えてあるべき天皇や皇室の姿、その存在意義について、もっと積極的に議論する空気があって良いと思う。
 
 しかし、同時に天皇や皇室という制度が、歴史と経緯の中で生成されてきた日本の独特の分かりにくさを持つ制度であること、そこには法律の文面上に現れぬ黙示の制度原理があること、そして同時に極めて政治的揮発性の高い案件であることを理解せねばならない。特にハイレベルで政治に携わる者は、天皇制に触れるに当たっては、自身の言動一つ一つが大きな政治的リスクをはらみ、他の政治案件に飛び火して致命的な影響を与えかねないことを踏まえ、慎重に慎重に事を運ばねばならない。

 もしそのことに今の民主党政権が気づいていないとすれば、小沢幹事長の言葉通り、うわべの憲法論でしか天皇制に対しての理解を持ち合わせていないのだとすれば、どうか。

 陛下の韓国訪問という話も取り沙汰される昨今、深刻に憂慮すべき事態と言わざるを得ない。

元首の政治利用(2)

 権威や権力は、通常、個人の意志と主張の発露によって獲得されるものである。意志なきところに人を動かす力は発生しえない。それが、政治学的な理解であり、恐らく西欧での常識であり、ドイツの大統領制を理解する上での基本公式である。
 
 しかし、天皇制はそうした公式に当てはめて理解することが難しい。すでに「神聖なる『空』」という言葉で説明したとおり、天皇制は、天皇の個人的人格が後退し、「希薄化」されるほど、天皇自身の権威が増すという、一種の逆説の上に成り立つ制度である。希薄化とは、言い換えれば、天皇の生身の人間としての存在感が後退し、日本国民の総意が、ふさわしい望ましいと思う在り方へと、天皇が私を捨て去り、自身を昇華していくプロセスと言える。
 それは「何もしない」ということによって達成できる作業ではない。とりわけ、歴史性というカリスマを持ち得なかった今上陛下は、何が一体象徴としての自身の在り方なのか、どこに「国民の総意」があるのかを、試行錯誤の中で探し求めねばならなかった、戦後憲法下の初の天皇である。陛下は「中立性」「公平性」「弱者へのいたわり」と言った概念に依拠し、「希薄化」を行ったが、結果としてそれは大きな成功を収めた。戦後民主主義に適合的な「神聖なる『空』」の領域を再発見したと言ってよい。
 
以上は、以前書いたことと同じである。
 
 さて、「一ヶ月ルール」は、それ自体、確かに枝葉末節の制度である。
 しかし、そうした枝葉末節の制度の中にも、陛下が即位後積み重ね築き上げてきた領域の根幹に触れる論点が内在している。
 「一ヶ月ルール」の本旨は陛下の健康を守ることにあるのではない。単に陛下の健康状態が問題なら、小沢幹事長の言う通り、その都度判断して柔軟にスケジュールを組めば良いだけの話である。しかし、そうした恣意的な運営では「不公平が生まれかねない」ことを危惧し、あらかじめ一ヶ月というラインを設けることで、予測可能な過密でないスケジュールの構築、透明で公平な要人応接という二つの要請を両立させることがその趣旨であった。
 そこには制度の趣旨として、明確に「公平性」を担保するという意図があり、そういう意図のもとに厳格に運用され、恐らくその下で陛下との会見が叶わなかった要人たちが存在するのである。そしてこの「公平性」という要素は、現在の天皇制を支える重要な価値観の一つとなっているのである。
 
 この「公平性」の価値観は、「重要性」という価値観と、鋭い緊張関係にある。恐らくこのことが、問題の核心である。
 
 中国は、重要である。習近平副主席を厚遇することの意義は、日本の国益にとって決して小さくはない。時の政府が、上述した緊張関係を踏まえた上で、敢えて「一ヶ月ルール」と将来の中国の指導者とを天秤にかけるという試みは、高度な政治判断として、十分にあり得る。天皇制も、つまるところは日本国のために存在する制度である。皇室が日本にとって強力な外交ツールである以上、日本の国益に適う形でその活用を考えることは、国政の責任者として当然である。
 
 それは大きく言えば「天皇の政治利用」である。ただそれ自体は政策判断の問題であり、「政治利用」そのものが直接批判されるべき問題なのではない。有体にいえば、事実上の国家元首である以上、100%政治から自由な立場でいられるわけなどなく、そういう意味で純粋な政治的中立性なるものを天皇制に期待するのは不可能だし、すべきでもない。
 
 しかし「政治利用」には常にリスクが伴う。もちろんその程度にもよるが、「政治利用」は時に天皇に生の人間の臭いを纏わせ、時に天皇を単なる傀儡に貶め、そして時に天皇制の根幹となる価値を歪ませる。これらはいずれも神聖な「空」の領域を侵犯し、天皇の権威をおとしめる。場合によっては天皇制そのものを致命的な形で傷つけかねない。天皇を政治的に利用しようとする政治家は、そのリスクを常に念頭に置き、政治利用により得られる国益と天皇制へのダメージとを天秤にかけ、それを見極める必要がある。
 
 そして政治利用を決断し実行するに当たっては、当然、天皇の政治利用を懸念する世論―今の日本では非常に強い勢力を持っているが―に対し、極めて慎重に、時間をかけて、政策の意図を浸透させ納得させるだけの技量と覚悟と忍耐が求められるのである。
 

元首の政治利用(1)

ドイツの大統領官邸の担当者と一度、元首としての外交の在り方というテーマで話す機会を持ったことがある。

 ドイツには大統領がいる。ただ国民から直接投票で選ばれるわけではなく、政治353e47f7c11e2b12.jpg的権力も(ゼロではないが)ほぼ無に等しい。そうした条件の下で如何に大統領としての権威を得、国家の顔として人々の信頼を得ていくかという課題は、決して容易なことではない。現在の大統領であるホルスト・ケーラーは元官僚であり、財務次官からIMF専務理事となった。大統領選が2004年のことで、この時62歳である。保守陣営側の候補者選定が難航した末担ぎ出された感が強かったケーラーだが、その後着実に国民の人気を得、今年5月に再選を果たし、今ではドイツの国家元首としてすっかり定着している。

 この大統領という職の舵取りは非常に難しいところがあると思う。一方で国民全体、ドイツ全体の代表として中立的な振る舞いを求められるが、他方で適度に存在感を発揮しなければ、国民から忘却される。ドイツの歴代大統領はもちろんこの機微をよくわきまえていて、時折限られた政治的リソースを駆使しながら、自身の(時に政治的な)主張を発信していく。
 テレビで公然と時の政権の政策批判を行ったり、倫理的問題について演説の場を借りて自らの主張を述べたり、憲法上疑義がある法律に対する署名を拒んだりする。共通しているのは、いずれも大統領個々人の(政治的)立場、信念を明らかにすることで、世論の注意を喚起し、権威を築き上げていくという点である。その信念が党派的であるとか非論理的であると受け止められれば、それだけで大統領の権威が失墜するリスクが内包されている。独特の政治的嗅覚とバランス感覚がなければこなせない仕事である。

 その大統領官邸の担当者は、「皇室や王室という血統的な元首のあり方と、ドイツの大統領制のように選出される元首のあり方には、もちろんそれぞれの短所長所がある。」と前置きしたうえで、「ただ、5年ごとの選挙により大統領が就任する我が国の制度は、個々の大統領の関心や信念の相違によって、多様な政治や社会の問題に対する世論の注目をダイナミックに喚起できるという利点がある。」と述べていた。非常に的を得た洞察であると思った。

 つまるところ、ドイツの大統領制は、基本的に大統領個人と言う生身の人間に依拠する制度であると言ってよい。
 その担当者は、そうした人間依存の制度に依拠することのリスクも、同時に認識していたふうであった。

 ただ、日本の皇室が極端なまでに政治的存在感を希薄化し、世論を喚起するという行為から厳しく距離を置いていることの意味については、どうやら理解しかねているようで、言外に「日本の皇室は退屈に見える」という気持ちを抱いているように見受けられた。
 恐らくドイツ人という民族にとって、戦後日本の天皇制ほど理解の難しい制度はないだろうな、と思った。

 以上は、前置きである。

 ここ一週間ほど、例の「特例会見」の問題について話題になることが多く、意見を求められる機会が多かった。どうも感情に任せて、あるいは単純な憲法論を持ち出して問題を過大視したり過少評価したりする、上滑りな論調が多いように感じる。

 全くの偶然だが、帰国後「皇室」や「天皇」という日本固有の元首制度のあり方について考える機会が多い。有名な「空」の概念や今上陛下の果たされた役割については、以前述べたことがある。それを前提として、少しこの機会に自分としての考えをまとめておきたい。


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HN:
Ein Japaner
性別:
男性
職業:
趣味:
読書、旅行
自己紹介:
三度の飯より政治談議が好きな30間近の不平分子。播州の片田舎出身。司馬遼太郎の熱狂的愛読者で歴史好き。ドイツ滞在経験があり、大のビール党。
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