のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
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もう一つはフィンランドの携帯電話製造会社、NOKIAに関するものである。
ドイツではNOKIAの存在感は大きい。どの携帯ショップでも店頭に並ぶ機種の多くはこNOKIAのもので、この会社の欧州における市場占有力をうかがわせる。ちなみにこちらでは日本ほどいわゆる「着メロ」が普及していないせいか、着信音を購入当初の設定のままにしている人が多い。そのため街中でNOKIA独特の着信音を耳にする機会は実に多い。ドイツ人の日常生活に溶け込んでいる外国企業の一つであると言えよう。
そのNOKIAが現在ドイツ世論の厳しい批判に曝されている。原因は同社が今年一月中旬、ドイツ北西部のBochum(ボーフム)市にある携帯組立工場の閉鎖を決定したことにある。
BochumはNordrhein-Westfahlen(ノルドラインーヴェストファーレン)州の中核都市のひとつである。この地域はRuhrgebiet(ルール地方)と呼ばれ、19世紀後半からドイツにおける一大工業中心地として栄えたことで知られる。第一次大戦後、ドイツの戦後賠償の担保としてフランスがいわゆる「ルール占領」を行ったことで世界史の表舞台にも登場する。しかしその重厚長大の産業構造からの転換が遅れたため、戦後ドイツにおいては次第にその経済的地位は低下した。むしろ全盛期に膨れ上がった人口をこの凋落傾向の中でいかにして養うかが現在この地域の直面している最大の課題となっている。旧西ドイツ地域の中で最も失業率の高い地域ともいわれ、雇用問題に関してはドイツの中でも特に敏感な地域であると言えよう。
NOKIAは構造転換を図るこの地域が苦労して誘致に成功したハイテク企業という位置づけである。この意味でもBochum市のショックは大きかったようである。同社の決定の理由は、端的に言って国際競争の中でコストのかさむこの地域での生産を維持することはできない、というものである。報道によればBochumの欧州での生産拠点としての機能はルーマニアの地方都市の移転される予定であるという。同国は2007年1月にEUに加盟している。安い労働力を求め域内を移動する資本、この事件はEU統合の一断面をわかりやすい形で示している。(右はBochum市のNOKIA工場。)
「21世紀にもソニーは私たちの文化的な生活に影響を与える革新的な製品とコンテンツを提供していきます。私はソニー・センターの落成を祝うことができ、またこの建物のデザインがソニーの理念を体現していることを、心よりうれしく思っています。」
先の式典で大賀会長が述べたとおり、ソニー・センターの奇抜な外観はいかにもデザイン重視のソニー製品にマッチしており、同社のブランド・イメージにうまく合致しているように思われる。またソニー・センターにはベルリン映画博物館が入居し、またベルリン国際映画祭の会場としても使用されるなど、映画とのつながりも深い。この面でも映画も含めコンテンツ面でも積極的な展開を探ってきた近年のソニー路線を体現しているようでもある。(右は『スパイダーマン』公開に際しての同センターでのイベント)
SONYの持つ良い意味での軽み、スタイリッシュさは世界のどこに出しても決して恥ずかしいものではない。そうした世界に通用する企業ブランドを象徴する建物がベルリンの中心部に堂々とそびえていることは、こちらに住む日本人としてはやはりなんとなく誇らしいものである。
そのソニー・センターが売却されるという。いや、現実には買い手がつかずに売却案が立ち往生している。
昨年10月、ポツダム広場のソニー・センター、及び南に面するダイムラー・クライスラー・シティーの一群の不動産が、それぞれの所有元企業から売却に出された旨が報じられた。詳細な理由は明らかではないが、高額なオフィス賃貸料が再開発の進むベルリンの中でネックとなり、入居者を確保できなかったことが大きな理由とされる。特にソニーの場合、最大の入居者であるドイツ鉄道(Deutsche Bahn)が、新設されたベルリン中央駅近辺のオフィスに移転することが決まったことが大きなダメージになったと言われる
ダイムラー側は12月に売却先が決定したが、ソニー・センターは今年1月時点で8億ユーロでの売却が成功しなかったという。ソニーは一端売却提案を引きあげた形となっており、今後の動向は不透明だが、おそらくさらに額を切り下げた形での売却を余儀なくされると見られる。
売却成立後には「ソニー・センター」の名称が変更される可能性が否定できない。現実は甘くはない、と言えばそれだけの話である。バブル時代の思慮を欠いた資産戦略のツケだ、という言い方もできるのだろう。しかし「この広場を世界の交差点にしよう」という統一ベルリンの夢に参加した日本企業の若々しい意気込みが、名前とともに消えさってしまうように感じられるのは、やはりさみしい。(左は同センター一角のソニー欧州本社。)
「私がこのプロジェクトに参画する決断をしたのは、ベルリンの将来に大きな確信を抱いたからです。ベルリンは21世紀ヨーロッパの新しい交点です。」 2000年6月14日、10年近くの施工期間を経てソニー・センターはオープンした。右はセレモニーに際しての当時のソニー会長、大賀典雄氏のスピーチの一節である。ちなみに同氏はベルリンに音楽留学の経験があり、落成式典に際して自らベルリン・フィルによる「第九」の演奏を指揮したという。
ソニーやダイムラーが統一後に本格的な開発に乗り出すまで、Potsdamer Platz(ポツダム広場)近郊は巨大な空白地であった。もちろんそれには理由がある。
ソニー・センターの地下通路にはの歴史がボードにして展示されている。それによると、大戦前、この一角はベルリンで最も人の集まる通りの一つであり、著名なホテルや映画関連の施設が集まる繁華街であった。これらの伝統的な建築群は第二次大戦の惨禍で半壊し、さらに不幸なことに、この広場を境にソ連、アメリカ、イギリス各国の占領地域の境界が引かれることになってしまったのである。当初はその地の利が生かされベルリン最大の闇市が立ったりしたらしいが、61年にベルリンの壁が建設されるとこの広場は完全にかつての機能を失った。半壊したままほそぼそと使用されていた建物も安全上の理由から徐々に撤去され、冷静の終結を迎えたときにはぽっかりと巨大な真空地となっていたのである。
それだけに、ベルリンの統一とともにこの地域を新たなコンセプトで開発しようというプロジェクトには、まさに東西冷戦の終結と新たな時代への一歩を象徴する大きな意味があった。企業戦略という観点からも、西側陣営の最東端に位置する巨大都市であるベルリンは、新たに開かれた東方のフロンティアへの起点として、地政学的にも重要な意味を持つことになったのである。
それだけにこの地域の開発には未来的なコンセプトが重視された。ソニー・センターと大通りを挟んだ南側はダイムラー・クライスラーが開発が行い、同じくポスト・モダン的な建築群が登場した。この大開発によりポツダム広場は「ヨーロッパ最大の建築現場」と称され、世界中の耳目を集めることになったのである。
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