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望雲録

のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

カテゴリー「経済」の記事一覧

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労働者の国(3)~NOKIAの工場閉鎖

 もう一つはフィンランドの携帯電話製造会社、NOKIAに関するものである。
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 ドイツではNOKIAの存在感は大きい。どの携帯ショップでも店頭に並ぶ機種の多くはこNOKIAのもので、この会社の欧州における市場占有力をうかがわせる。ちなみにこちらでは日本ほどいわゆる「着メロ」が普及していないせいか、着信音を購入当初の設定のままにしている人が多い。そのため街中でNOKIA独特の着信音を耳にする機会は実に多い。ドイツ人の日常生活に溶け込んでいる外国企業の一つであると言えよう。

 そのNOKIAが現在ドイツ世論の厳しい批判に曝されている。原因は同社が今年一月中旬、ドイツ北西部のBochum(ボーフム)市にある携帯組立工場の閉鎖を決定したことにある。

Lage_des_Ruhrgebiets.png BochumはNordrhein-Westfahlen(ノルドラインーヴェストファーレン)州の中核都市のひとつである。この地域はRuhrgebiet(ルール地方)と呼ばれ、19世紀後半からドイツにおける一大工業中心地として栄えたことで知られる。第一次大戦後、ドイツの戦後賠償の担保としてフランスがいわゆる「ルール占領」を行ったことで世界史の表舞台にも登場する。しかしその重厚長大の産業構造からの転換が遅れたため、戦後ドイツにおいては次第にその経済的地位は低下した。むしろ全盛期に膨れ上がった人口をこの凋落傾向の中でいかにして養うかが現在この地域の直面している最大の課題となっている。旧西ドイツ地域の中で最も失業率の高い地域ともいわれ、雇用問題に関してはドイツの中でも特に敏感な地域であると言えよう。450px-Bochum_Nokia01.jpg
 
 NOKIAは構造転換を図るこの地域が苦労して誘致に成功したハイテク企業という位置づけである。この意味でもBochum市のショックは大きかったようである。同社の決定の理由は、端的に言って国際競争の中でコストのかさむこの地域での生産を維持することはできない、というものである。報道によればBochumの欧州での生産拠点としての機能はルーマニアの地方都市の移転される予定であるという。同国は2007年1月にEUに加盟している。安い労働力を求め域内を移動する資本、この事件はEU統合の一断面をわかりやすい形で示している。(
右はBochum市のNOKIA工場。)

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労働者の国(2)~ストライキ

 ただ面白いことに、世論調査では一貫してGDLに同情的な声が多数を占め続けた。秋口にいったん経営側に傾きかけたかに思われた時流も組合側を押し切るところまではいかなかった。

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 結局「クリスマス前に合意に達したい」との双方の要望はかなわず、交渉は年を越した。またもやスト実施の危機が迫る中、一月中旬にWolfgang Tiefensee連邦交通相(左)の仲介30191-schellddp_016F0800D891A2A8475566b816e6.jpgがようやく功を奏し、電撃的に合意が成立することになった(右)。結果的にGDL側の主要な要求が大きく認められる形となり、Schell組合長は満面の笑顔で記者会見にのぞみ、「GDLにとって歴史的な日だ」と満足げに語った。この国ではストが交渉手段としてまだまだ実効力を持っていることが実証されたことになる。
 
 ちなみにDB側がこの協約から生じる負担増を運賃引き上げで補う意図を示すと、一斉に批判的な記事がドイツ各紙を踊った。全国紙のDie Welt紙には”Bahnchef droht seinen Kunden(鉄道経営者は自分の顧客を脅迫している)"という見出しがつけられた。普段は冷静で事実を淡々と報告する新聞であるだけに、この感情的な報道ぶりは非常に印象的で、労働者の地位向上への高い関心と経営者に対する反感が感じられた。

28199-bahnddp_016EAC008D9BA352.jpg 日本人の目から見れば少しバランスを欠いているように見えるが、これがこの国の常識のようである。学生の自分ですら不便を感じたのだから、一般通勤者の迷惑ははかり知れない。それでも組合側は最後まで世論の反発を招くことはなかったのである。

労働者の国(1)~ストライキ

 ドイツでは日本に比して労働関係の話題がニュースになることが多いように思われる。その中でも特に印象的だった事件を二つ紹介したい。

 ひとつはドイツ鉄道(Deutsche Bahn、DB)におけるストライキである。
 日本では鉄道のストなどはほとんど過去の遺物となっており、何やらレトロなイメージすらある。仮に発生したとしても儀式的に1、2日行うだけで、実際に賃上げ交渉を大きく左右するような意味は少ない。

a055c018.jpeg ところが今回のドイツ鉄道のストは、賃上げ交渉と並行してなんと半年以上にわたり断続的に行われた。交渉が暗礁に乗り上げるたびに全ドイツ規模でストが実施されたため、この間ドイツ国民は交渉の行方から目が離せなかった。ちなみに自分も3回ほどストで足を奪われた(左はストにあった乗客に情報提供と飲み物のサービスを行うDB職員)

 問題の発端はGDL(Gewerkschaft Deutscher Lokomotivführer、ドイツ機関士労働組合)という労働組合である。ドイツ鉄道の機関士の大多数を組織する労働組合で、昨年3月の賃上げ交渉の際に他の労働組合と異なる独自の労働協約(つまり機関士独自の労働協約)を求め、31%の賃上げや労働状況の改善などを求め752049_1_AH_20070806914_20070806.jpgた。交渉が行きづまった6月上旬、GDLは無期限のスト突入を宣言し、以後断続的に全国規模のストが繰りかえされることになった。組合長であるManfred Schell氏(右)は毎日のようにメディアに取り上げられ、一躍時の人となった。秋に入るとさすがの異常事態に政府も傍観できなくなり仲介に乗り出したが、すぐには成果が上がらなかった。

 交渉の大きな山場であった10月は特にストライキが頻発した。一面の見出しに「今日のストライキ予報」なる欄が設けられた新聞もあった。大手の自動車レンタル会社はストのおかげで収益が大幅に増大し、遊び心からかSchell氏への感謝広告を出した会社もあった。

Margaret.JPG.jpg この時期、DB側は”Stoppen Sie diesen Wahnsinn, Herr Schell!”(こんな気違いじみた行いはやめなさい、Schell氏!)と題した新聞広告を打つなど、両者の対立は最も先鋭化した。(左はDBの交渉担当者、Margret Suckale氏。)

 
 ちなみに交渉が最も過熱していた10月にSchell氏が3週間(!)の休暇をとったことがちょっとした話題になった。日本で同じことをすればマスコミに徹底的に叩かれ、国民はもちろん組合員の信頼も一気に瓦解していたことだろう。ドイツでは休暇は不可侵の権利である。

フジヤマの身売り(3)

 「21世紀にもソニーは私たちの文化的な生活に影響を与える革新的な製品とコンテンツを提供していきます。私はソニー・センターの落成を祝うことができ、またこの建物のデザインがソニーの理念を体現していることを、心よりうれしく思っています。」DSCF7948.JPG
 先の式典で大賀会長が述べたとおり、ソニー・センターの奇抜な外観はいかにもデザイン重視のソニー製品にマッチしており、同社のブランド・イメージにうまく合致しているように思われる。またソニー・センターにはベルリン映画博物館が入居し、またベルリン国際映画祭の会場としても使用されるなど、映画とのつながりも深い。この面でも映画も含めコンテンツ面でも積極的な展開を探ってきた近年のソニー路線を体現しているようでもある。(右は『スパイダーマン』公開に際しての同センターでのイベント)

 SONYの持つ良い意味での軽み、スタイリッシュさは世界のどこに出しても決して恥ずかしいものではない。そうした世界に通用する企業ブランドを象徴する建物がベルリンの中心部に堂々とそびえていることは、こちらに住む日本人としてはやはりなんとなく誇らしいものである。

 そのソニー・センターが売却されるという。いや、現実には買い手がつかずに売却案が立ち往生している。 

 昨年10月、ポツダム広場のソニー・センター、及び南に面するダイムラー・クライスラー・シティーの一群の不動産が、それぞれの所有元企業から売却に出された旨が報じられた。詳細な理由は明らかではないが、高額なオフィス賃貸料が再開発の進むベルリンの中でネックとなり、入居者を確保できなかったことが大きな理由とされる。特にソニーの場合、最大の入居者であるドイツ鉄道(Deutsche Bahn)が、新設されたベルリン中央駅近辺のオフィスに移転することが決まったことが大きなダメージになったと言われる

 ダイムラー側は12月に売却先が決定したが、ソニー・センターは今年1月時点で8億ユーロでの売却が成功しなかったという。ソニーは一端売却提案を引きあげた形となっており、今後の動向は不透明だが、おそらくさらに額を切り下げた形での売却を余儀なくされると見られる。

DSCF7950.JPG 売却成立後には「ソニー・センター」の名称が変更される可能性が否定できない。現実は甘くはない、と言えばそれだけの話である。バブル時代の思慮を欠いた資産戦略のツケだ、という言い方もできるのだろう。しかし「この広場を世界の交差点にしよう」という統一ベルリンの夢に参加した日本企業の若々しい意気込みが、名前とともに消えさってしまうように感じられるのは、やはりさみしい。(左は同センター一角のソニー欧州本社。)


フジヤマの身売り(2)

 「私がこのプロジェクトに参画する決断をしたのは、ベルリンの将来に大きな確信を抱いたからです。ベルリンは21世紀ヨーロッパの新しい交点です。」 2000年6月14日、10年近くの施工期間を経てソニー・センターはオープンした。右はセレモニーに際しての当時のソニー会長、大賀典雄氏のスピーチの一節である。ちなみに同氏はベルリンに音楽留学の経験があり、落成式典に際して自らベルリン・フィルによる「第九」の演奏を指揮したという。

 ソニーやダイムラーが統一後に本格的な開発に乗り出すまで、Potsdamer Platz(ポツダム広場)近郊は巨大な空白地であった。もちろんそれには理由がある。
 ソニー・センターの地下通路にはの歴史がボードにして展示さPotsdamerplatz3.jpgれている。それによると、大戦前、この一角はベルリンで最も人の集まる通りの一つであり、著名なホテルや映画関連の施設が集まる繁華街であった。これらの伝統的な建築群は第二次大戦の惨禍で半壊し、さらに不幸なことに、この広場を境にソ連、アメリカ、イギリス各国の占領地域の境界が引かれることになってしまったのである。当初はその地の利が生かされベルリン最大の闇市が立ったりしたらしいが、61年にベルリンの壁が建設されるとこの広場は完全にかつての機能を失った。半壊したままほそぼそと使用されていた建物も安全上の理由から徐々に撤去され、冷静の終結を迎えたときにはぽっかりと巨大な真空地となっていたのである。

PotsdamerPlatz_Vogelperspektive_2004_1.jpg それだけに、ベルリンの統一とともにこの地域を新たなコンセプトで開発しようというプロジェクトには、まさに東西冷戦の終結と新たな時代への一歩を象徴する大きな意味があった。企業戦略という観点からも、西側陣営の最東端に位置する巨大都市であるベルリンは、新たに開かれた東方のフロンティアへの起点として、地政学的にも重要な意味を持つことになったのである。

 それだけにこの地域の開発には未来的なコンセプトが重視された。ソニー・センターと大通りを挟んだ南側はダイムラー・クライスラーが開発が行い、同じくポスト・モダン的な建築群が登場した。この大開発によりポツダム広場は「ヨーロッパ最大の建築現場」と称され、世界中の耳目を集めることになったのである。


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読書、旅行
自己紹介:
三度の飯より政治談議が好きな30間近の不平分子。播州の片田舎出身。司馬遼太郎の熱狂的愛読者で歴史好き。ドイツ滞在経験があり、大のビール党。
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