のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
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「私がこのプロジェクトに参画する決断をしたのは、ベルリンの将来に大きな確信を抱いたからです。ベルリンは21世紀ヨーロッパの新しい交点です。」 2000年6月14日、10年近くの施工期間を経てソニー・センターはオープンした。右はセレモニーに際しての当時のソニー会長、大賀典雄氏のスピーチの一節である。ちなみに同氏はベルリンに音楽留学の経験があり、落成式典に際して自らベルリン・フィルによる「第九」の演奏を指揮したという。
ソニーやダイムラーが統一後に本格的な開発に乗り出すまで、Potsdamer Platz(ポツダム広場)近郊は巨大な空白地であった。もちろんそれには理由がある。
ソニー・センターの地下通路にはの歴史がボードにして展示されている。それによると、大戦前、この一角はベルリンで最も人の集まる通りの一つであり、著名なホテルや映画関連の施設が集まる繁華街であった。これらの伝統的な建築群は第二次大戦の惨禍で半壊し、さらに不幸なことに、この広場を境にソ連、アメリカ、イギリス各国の占領地域の境界が引かれることになってしまったのである。当初はその地の利が生かされベルリン最大の闇市が立ったりしたらしいが、61年にベルリンの壁が建設されるとこの広場は完全にかつての機能を失った。半壊したままほそぼそと使用されていた建物も安全上の理由から徐々に撤去され、冷静の終結を迎えたときにはぽっかりと巨大な真空地となっていたのである。
それだけに、ベルリンの統一とともにこの地域を新たなコンセプトで開発しようというプロジェクトには、まさに東西冷戦の終結と新たな時代への一歩を象徴する大きな意味があった。企業戦略という観点からも、西側陣営の最東端に位置する巨大都市であるベルリンは、新たに開かれた東方のフロンティアへの起点として、地政学的にも重要な意味を持つことになったのである。
それだけにこの地域の開発には未来的なコンセプトが重視された。ソニー・センターと大通りを挟んだ南側はダイムラー・クライスラーが開発が行い、同じくポスト・モダン的な建築群が登場した。この大開発によりポツダム広場は「ヨーロッパ最大の建築現場」と称され、世界中の耳目を集めることになったのである。
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