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望雲録

のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

カテゴリー「社会・文化・価値観」の記事一覧

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仕事をささえる「あそび」

日本人である程度一生懸命何かを成し遂げようと思って働いている人は普通は十分に自分の時間は持てない。とりわけ自分が所属している業界なんかではなおさらのこと。何かを成し遂げようと思えば何かを犠牲にせざるを得ない。才能がない人間にとって最後に残された道は戦場を絞って持てる戦力を総動員しての局地戦だ。勝利を欲するならば、それしか道はない。つい2年前まではただただ仕事のことだけを考えて、自分の時間なんて必要ないと思って、職場にいようがいまいが仕事に役立つか役立たないかで生活のスケジュールを考えて、焦って、もどかしくて、腹立たしくて、疲弊して、空回りして、虚しくなって、日々が過ぎていった。

振り返ると決してパフォーマンスがほかの人と比べて高いわけではないことに気が付き、愕然とさせられた。自分の才のなさを責め、また苦しみ、悶々とした日々が過ぎていく。倒れるように週末に辿りつき、ベッドの中で孤独と不安と暗い未来の予感にさいなまれながら、起きられず、起きる気がわかず、月曜の朝を迎えるまで死人のように眠りこけることもざらにあった。

2年間、自由な時間を持てて、そうした自分を客観視する時間を持てたことは有意義だったと思う。

逆説的だが、人間という生き物は1個の目的に集中するためには、逆に肉体的にも精神的にも遊びの部分を作っておく必要がある。特に若干精神的に過敏なところがある人間はそうであるようだ。

ヘッドフォンをつけて聞くのは語学だけ、という習慣を改め、学生時代に好きだった音楽を聴いて、遠慮なくそれを口ずさむ。週に一度は無理に時間をとってでも頭をカラにして思いきり体を動かし汗をかく。定期的に心から気の合う友人と会って酒を飲み放談する。仕事に直接関係のない話や本を虚心坦懐に聞いて読む。ボケーとテレビを眺める。映画や買い物や美術館や、一見無駄と思えるものでも、時間をとって、その間は頭をカラにして楽しむ。

そういうことを意識的に一月ほど続けて振り返ってみると、不思議なことにこちらの方が総合的な意味でのパフォーマンスはずいぶん高い。精神的にも肉体的にも健全で、前向きな姿勢で生きることができているからかもしれない。

「無駄」を甘受し仕事を忘れ「楽しむ」時間を意識的に作る。自分はいかなる意味でも仕事よりプライベートを大事にしたいタイプの人間ではないが、効率的に良い仕事をするには逆にそれと距離をとる時間が必要なことに遅まきながら気付き始めた。有能な経営者であるとか政治家であるとかは存外多様で奇抜な趣味を持っていたりすることが多いが、何となくその意味がわかるような気がしてきた。

これはある意味で徹底したリアリズムと言えるかもしれない。パフォーマンスを得るために、夢や情動や功名心や闘争心を一端脇において、「無駄」に時間を投入する。端的に言えば「メリハリをつける」ということだが、自然とそうできない人間は意外に多い。無理やりでも「メリハリ」をつけるように努めることが総合的な成果につながるとは正直意外な、もっと言えば理不尽な気さえするが、少なくとも私にとってはそれが真実であるようだ。まこと、自分をメンテナンスするのは難しい。

ということで、ちょっとした人生の「コツ」をつかんで、再びの東京生活は結構充実しています。書きたいことはその日のうちに書いておかないと忘れちまう上に気が抜けてしまうので、リサーチ系の記事とは別につらつらこういうことを書く機会を増やすことにしようと思ってます。そもそもブログってそういうものですしね。

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マッド・サイエンティストの原型(4)

 このエントリーを書くきっかけとなったのはテレビで放送されていたフォン・ブラウン博士のドキュメンタリー番組である。ドイツでは毎日のようにナチ時代関連のドキュメンタリーや映画が流されているが、この「ナチスからNASAへ」と題された番組も例にもれず、この科学者の非道徳性をやや批判的に描く内容であった。その中でコメンテーターが概要以下のように述べていたのが印象に残った。

「高度な知性を持った人物がモラルなしで暴走してしまう。これは我々の歴史の中で観察される、一つの問題的な精神類型なのです。」

 スペシャリスト志向かジェネラリスト志向か、民族の知的傾向を仮にそのように大別できるとするならば、ドイツは前者に属する代表的な国であると言えよう。知性が人格の陶冶と密接に関連するという確信、あるいは関連させねばならないという思想を教養主義とするならば、ドイツには教養主義の伝統が希薄のように思われる。実際、この国の大学には教養学部というものがない。それはドイツ人学生の質が低いということでは全くない。むしろ日本の教養学部であるとか総合人間学部であるとか(ドイツ人に言わせると)意味の分からない学部で勉強する学生に比べれば、彼らは確実にまとまった専門知識の果実を手にして大学を去る。ドイツ人学生の専門知識の深さはしばしば舌を巻くほどに詳細で正確であり、彼ら自身もその専門性に安住する傾向があるように思われる。

 一方で幅の広さという点ではいささか心もとない。ハイネを知らなかったり、カフカの小説の原文はチェコ語だと思っていたり、カントとヘーゲルを勘違いしていたり、人文科学分野で修士号や博士号を持っている人でも、ままそういうことがある。広く知を求めること、古典にいそしむことで平衡的に知性を発展させようという感覚に乏しいのである。

 一個の命題へとわき目もふらず没入して行くドイツ的精神は、既存の常識を嘲笑うかのような様々な目覚ましいパラダイムシフトをアカデミズムの世界にもたらしてきた。しかしそのような科学者たちの経歴には、技術悪用への無頓着、精神疾患や自殺、私生活における奇行など、どこか人間的な平衡を書いた危うさを感じさせるものが多い。バランスを失った飛行機が地面に向かって錐もみに落下していくような、鋭角的な危うさがある。

 ハイネを知らなかった女学生が、"Ich bin nicht Germanistin! (私、ドイツ文学専攻じゃないもの!)"と言い放つ、ふてくされた表情を思い出す。近代という時代の一つの特徴が、全体の合理的な細分化と専門分化という点にあったとすれば、それは間違いなくドイツ人を利したと言えるだろう。ドイツ人がそのことにどれだけ自覚的でいるかは、正直よくわからない。

 確かなのは、21世紀もすでに幾年を重ね、近代という時代が漸う過ぎ去りつつあるという事実である。

マッド・サイエンティストの原型(3)

 アメリカでのブラウンの最初の仕事はアラバマのブリス駐屯地での研究教育活動であった。ここでブラウンと彼のロケット開発チーム達はドイツから移送されたV2ロケットの再整備なども行ったという。外出には常にエスコートがつくなど、自由は制限されていた。1950年に朝鮮戦争が勃発すると、ブラウンは再び軍用弾道ミサイルの開発に従事することになる。red-stoneと称される米軍初の核弾頭搭載可能な弾道ミサイルである。軍用ミサイルの開発に精を出すかたわら、しかし彼の「宇宙有人飛行」の夢は一貫していた。彼は地元アラバマを拠点に積極的に宇宙飛行の実現可能性をアメリカ国民に訴えかけるPR活動を行った。出版講演活動はもちろん、ディズニーの宇宙冒険映画開発に協力したりもした。
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1957年のスプートニク・ショックの後、米政界にロケット開発への機運が盛り上がり、翌年NASAが設立され米ソの宇宙開発競争が本格化する。こうした動きの中でロケット開発の第一人者であり、すでに先進的な宇宙開発専門家として名が知られ始めていたブラウン博士は、1959年NASAへの転属を命じられる。新設されたマーシャル宇宙飛行センターの初代所長として、ようやく思う存分夢の実現にまい進できる環境が整ったのである。
64371f72.jpeg ブラウンはケネディの打ち出したアポロ計画の実現に向け、大気圏外に衛星のような思い搭載物を運搬できるロケット技術の開発に心血を注いだ。彼が開発を手がけたロケットは「サターン」シリーズと呼ばれる。その第5世代であるサターン5号が、アポロ11号とそのクルー達を月面へと送り出したのである。1969年7月16日のことであった。ブラウン博士にとって、人生最高の瞬間であったろう。フォン・ブラウンと彼のチーム無くしては、これほど短期の月面着陸は実現不可能であったと言われる。(左はケネディ大統領と相談するブラウン。)
 
 アポロ計画がアメリカの宇宙開発の頂点であったように、ブラウン博士の人生もここで頂点を極めた。彼の次なる夢は火星への有人飛行計画であったが、宇宙開発に後ろ向きとなった米政府の十分な支援が得られぬまま、その後は特筆すべき業績もなく、関連の民間企業や研究所を転々としたのち、1977年に腸がんで亡くなった。65歳であった。

 夢に生き、それを自らの才覚と努力で実現した。それは間違いなく人類の進歩に貢献した、壮大な夢であった。良い人生だったとも言える。彼がその人生の節目節目で取った行動も、時代状況の厳しさを考えれば、非倫理的とまでは言えない。
 
 ただ自らの関心にのみ忠実な、没倫理的な人生とは言えるだろう。ナチスの闇に加担した過去と、宇宙飛行を夢見る子供のような無邪気さとが、同じ人間に共存したという事実は、考えようによっては名状しがたい不気味さを醸し出す。ナチス批判がかまびすしくなった現代のドイツでは批判的な見方が強い。

マッド・サイエンティストの原型(2)

 フォン・ブラウンはプロイセン地主の次男として生まれ、幼い頃から音楽と自然科学に優れた資質を示したという。幼少期から手製のロケットを飛ばしたり、宇宙飛行に関する書籍に夢中になったりと、宇宙空間に至るロケットの開発は文字通り彼にとって子供の頃からの夢であった。
 
 1932年にベルリン工科大学を卒業したブラウンは陸軍兵器局に職を求める。この間、彼の研究対象は一貫53759a31.jpegして液体燃料ロケットであった。彼がベルリンで研究にいそしんでいた時期はちょうどドイツのナチ化の時期と重なっている。ブラウンのナチ入党は1938年のことであり、決してヒトラーの賛美者であったというわけではない。ただ時代が彼の才能を必要とした。ブラウンのロケット研究に強い関心を示したナチスによって、彼はドイツ北岸のPenemuende(ペーネミュンデ)の軍事実験施設に配属され、地対地弾道ミサイルの開発研究に没頭した。

 1944年、彼の手によって開発されたロケットはVergeltungswaffe2「報復兵器2号」と称され、ロンドンを襲った。このいわゆるV2ロケットは、人類史上初めて宇宙空間に到達したとされる発射物である。音速を超えるV2ミサイルの迎撃も予測も不可能で、唐突に市内に炸裂するという性質は、市民に大きな心理的恐怖を与えたという。大戦終了までイギリスやベルギーを中心に合計3200発が投入され、8000人近い市民が犠牲になった。ただよく知られている通り、戦略的にはほとんど意味のない兵器であった。
 
 このV2ロケットの量産に当たり、ナチスはブッヘンヴァルト収容所近郊に秘密建造施設を建設し、週四所のda4b5a7a.jpeg囚人を清算作業に従事させたという。真偽は定かではないが、一説によればブラウンは自ら現地で生産に当たる囚人を選別し、ロケット量産の指揮を執ったとされる。のちにブラウンがアメリカで名声を博した際、この時代を知る収容所の生き残りの人々が激しい抗議運動を展開した。ブラウン自身は晩年に至るまで「収容所の悲惨な労働環境については知らなかった」と述べたという。このDora-Mittelbau付属収容所ではおよそ2万人が命を落とした。今日とりわけ厳しく批判される点である。
 
 戦争終結間近、ブラウンはソ連の占領を逃れ、ドイツ南部に避難し、そこに進駐してきた米軍と接触する。当時米軍は「曇天作戦(Operation Overcast)」と呼ばれるドイツ科学者のリクルート作戦を展開しており、ブラウンは自分の軍事ロケット開発者としの有用性を米軍に売り込んだのである。

 1946年、荒廃したドイツに背を向け、ブラウンはアメリカへと旅立つ。この時35歳である。

マッド・サイエンティストの原型(1)

 『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』 は、スタンリー・キューブリックの名作として名高い。米ソ冷戦下における「核の均衡」の脆弱性を辛辣に嘲笑し戯画化した、底意地の悪いブラックユーモア映画である。

5a79b072.jpeg この映画の中で最も印象的な登場人物はやはりDr. Strangeloveだろう。映画の表題にもなっているこの人物はナチス崩壊後アメリカ政府に雇われた科学者という設定で、本筋においてさほど重要な役回りを演ずるわけではないが、そのあくの強いキャラクターで見るものに忘れがたい印象を残す。米大統領に対し何度も「総統(Führer)」と呼び掛けたり、右手でナチ式敬礼を行おうとしたり、喜々として優生論な人類生存計画を説明する様はまさに「マッド・サイエンティスト」という言葉がぴたりと当てはまる。
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 この「知能は並はずれて高いがそれと反比例して倫理観が欠如している」科学者というステレオタイプの起源については諸説あるそうだが、ゲーテの戯曲化で有名なゲオルグ・ファウスト(Johann Georg Faust)博士もその一人であるという。真実の探求のために魔術に手を出し、召喚した悪魔メフィストフェレスと契約し魂を奪われるたという伝説は、もちろん真実に忠実な求道者の物語として同情的に捉えることも可能だが(実際、ゲーテはそのような描き方をし、最終的に彼の魂を救済させている)、逆に科学的真実探究のためには規範や倫理を従属させるという危うさをはらんだ人物として見ることもできる。

 第二次世界大戦前までのドイツは言うまでもなく、世界トップレベルの科学技術大国であった。現代物理科学の二大潮流である相対性理論も量子力学もドイツ語圏の科学者の着想であるし、応用科学においてもガソリン自動車や飛行船、潜水艦などを大々的に開発導入したのはドイツである。とりわけナチス時代には軍事関連技術の開発に従事した科学者が数多く存在した。それら優秀な科学者の多くは戦後もアメリカやソ連本国に移住し、米ソ軍事競争を支える原動力d579170d.jpegとなったのである。
 その中で恐らく最も著名なのがヴェルナー・フォン・ブラウン(Wernher Magnus Maximilian Freiherr von Braunである。ナチス時代にはいわゆるV2ロケットの開発に成功した新進気鋭の若手科学者としてヒトラーの信頼が厚く、ブッヘンヴァルト収容所のユダヤ人らを過酷な労働環境の下で使役して同ロケットの大量生産の指揮を執ったが、大戦後はアメリカにわたって一転米国の宇宙開発計画に協力し重要な役割を果たした。一節ではストレンジラヴ博士のモデルではないか、といわれている人物である。


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HN:
Ein Japaner
性別:
男性
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趣味:
読書、旅行
自己紹介:
三度の飯より政治談議が好きな30間近の不平分子。播州の片田舎出身。司馬遼太郎の熱狂的愛読者で歴史好き。ドイツ滞在経験があり、大のビール党。
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[02/09 支那通見習]
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