のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
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当時のドイツ人たちのワイマール共和国に対する評価は必ずしも肯定的なものではなかった。とりわけ南部ドイツを中心としてヴェルサイユ条約という屈辱的な講和条約を「勝手に」締結したベルリン政府への反発は根強いものがあった。敗戦の原因を大戦末期にドイツ国内で発生したドイツ革命とそれを起こした社会主義者たちに求めるいわゆる「匕首伝説」(ドイツは背後から味方に匕首で刺されたために第一次大戦に敗北した)も人口に広く膾炙していた。
そうした社会的不満を一つの背景としてナチスが台頭するわけだが、ここでおなじみのナチスの鈎十字党旗に使用された色を思い出してほしい(右)。ドイツ帝国期の国旗と同様、黒白赤の三色が用いられているのである。当初ナチスは「第三帝国(Das Dritte Reich)」の呼称を好んで用いていたように、この政党は「第二帝国」たるドイツ帝国との連続性を強く意識しており、党旗の作成にあたってもいわば「ワイマール」「自由と民主主義」の象徴である黒赤金の三色旗に対するアンチテーゼとしてこの三色を選択したことが読み取れる。そしてこの鈎十字はナチスの権力掌握に合わせて正式にドイツ国旗としての地位を獲得することとなるのである。
ナチの象徴として使用されたことで黒白赤の三色旗の命運は事実上尽きた。敗戦後、ナチスを象徴する文物は厳しく取り締まられることとなったが、もちろんこの黒白赤も例外ではなかった。
こうして1949年の西ドイツ成立に際し、再び黒赤黄の三色旗が国旗として復活することになる。この三色はドイツの激動の近代に翻弄される中、幸運にも汚点なしに自由、統一、民主主義という価値観を一身に背負うようになっていた。(ちなみに東ドイツの国旗も使用された色は同様である(右))。
友人が言うには、現在のように広範に国旗が応援に使われ始めたのは2006年のワールドカップからであるという。それ以前はなんとなく「国家」を強烈に象徴することに対する遠慮があったらしいが、現在の状況を見る限りではそうした感情は「克服」されたようである。
とはいえ、今でもナチ時代に関わるタブーは根強く存在するドイツ社会を考えれば、やはりナチの歴史を背負っていない(むしろアンチテーゼとして否定された)という事実は、この三色旗が社会に広く受容されるのに不可欠な条件だったと言ってよいだろう。その点、我々が日の丸に抱く感情とは明らかな一線を画する。日の丸は気軽に持ち運ぶにしては言い知れようのない歴史の重みを背負わされている。大げさに言えば、掲げる者に日本近代の栄光と罪悪を清濁合わせて飲み込むことを要求する。
シャツや帽子、スカーフやスカートにまで、黒赤金を自在にアレンジして足取り軽くドイツチームの応援に出かける人々の姿を見ながら、そんなことを考えさせられた。
ドイツ近代史がほぼプロイセン史と同義であるという理解は決して間違いではないが、19世紀の統一までの道程に際してプロイセン以外のドイツ諸邦が独立した国際政治上のアクターであったことを押さえておくと、ドイツという国への理解が一段深まる。
1866年の普墺戦争に際してこの黒・赤・金の腕章を用いたのは、同じドイツでも北ドイツのプロイセン王国ではなく、オーストリアに味方した南ドイツ諸国であった。つまりこの三色はプロイセン王国の敵側の象徴として用いられていたのである。
先に述べたとおり、この旗は「自由」と「統一」の意味を持たされている。ここで言う「統一」とはオーストリアも含めた「大ドイツ主義」的な統一の意味である。いずれもビスマルクの「ドイツ帝国」の理念に合致するものではなかった。
その結果、1871年のドイツ帝国成立に際し事実上の国旗として採用されたのはもう一つの三色旗、Schwarz-Weiss-Rot(黒白赤)であった。この旗は普墺戦争後に構築された「北ドイツ連邦」の商旗・戦旗であり、プロイセン王家の象徴である黒と白に、ハンザ同盟の商旗である白・赤を組み合わせたものであると言われる。
と言って黒赤金の三色旗が廃れてしまったわけではない。この三色はドイツ帝国の成立後も相変わらず「自由」と「(大ドイツ主義的)統一」の象徴として、国権主義的なドイツ帝国に対する抵抗、改革の象徴として極右勢力から自由主義者まで様々な陣営に利用され、根強い支持を保ち続けた。
第一次大戦に敗北し、国内の革命騒ぎが収まり、ワイマール共和国として新たな出発を迎えることになったドイツでは、旧来の帝国、国家主義の象徴である国旗を変更すべきだとの意見が強まった。「かつて(ドイツ帝国以前)の自由ドイツの歴史を取り戻そう」との声の下、選ばれたのがこの黒赤黄の三色旗であった。
ドイツ語という言葉が今のご時世はたしてどれだけ役に立つのかー。何らかの理由があってこの言葉を勉強している(させられている)者なら一度は必ず直面させられる課題である。コミュニケーション手段としての有用性という点では英語はもちろん、仏語やスペイン語や中国語と比してメリットがあるとは言い難い。実際ドイツ語を話す人々というのは全世界で一億人程度で、これは実は日本の総人口(つまり日本語を話す人間の数)より少ない。しかも最近のドイツ人はかなり英語ができる。言葉自体の修得の困難さも勘案すると、ますますこの言葉を学ぶことの意義に頭を悩ませざるを得なくなる。
しかし皮膚感覚で言えばドイツ語は英語に次ぎ仏語と肩を並べる「世界言語」としての名声を誇っている。少なくとも私が大学でドイツ語を勉強していた7、8年前まではそうであった。このドイツ語のある種実態とかけ離れた巨大な存在感はどこから来るのか。直感的に考えるならば19世紀末から20世紀初頭にかけてのドイツ語圏における爆発的な学問の隆盛にあるのではと思う。
思いつくままにこの時代のドイツ語圏の学問的巨人たちの名をあげてみる。哲学ではヘーゲル、二―チェ、ヴィトゲンシュタイン、ハイデッガー等々、近現代哲学史はドイツ哲学史とほぼ同義である。心理学はフロイト、ユング、フロムを代表としこれもほぼドイツ産の学問と言ってよい。医学では細菌学のコッホ、X線のレントゲン、社会学は他に比べるとまだ見劣りがするが、それでもマルクス、ウェーバー、シュンペーター等巨人を輩出している。物理学の分野では言うまでもなくアインシュタイン、ハイゼンベルク、プランクをはじめ、相対性理論と量子物理学という現代物理学の二大潮流はいずれもドイツ語圏を起源としている。他にも歴史学の祖ランケ、遺伝の法則でおなじみのメンデル、数学の不完全性定理のゲーデルなど、文字通り枚挙に暇がない。
近代という言葉とともに頭に浮かんで来る学者研究者たちが、驚くべき割合でドイツ語圏出身であることが分かる。戦前のドイツ(語圏)は掛け値なしに世界の学問の中心だったわけである。なるほどこの状況ではおよそ学問を志す者であれば是が非でもドイツ語を学ばねばならないと考えられたとの無理はないだろう。戦前の日本におけるドイツ語人気もこの文脈から考えれば容易に理解できる。ドイツ語はコミュニケーション手段としてではなく、何よりもアカデミズムの言葉としてその地位を確立してきたと言ってよいのではないだろうか。
ドイツが学問のメッカとしての地位を失うのはナチスの台頭と第二次大戦に伴い大量の科学者が流出したからである。のちに彼ら亡命科学者の活躍を通して米国は世界の学問の中心地としての地位を確立した。ドイツ語をバックボーンに持つ人々が近現代の人智の進展にいかに大きく寄与してきたかを感じざるを得ない。
最近は日本の大学でドイツ語を履修する学生の数はますます減少傾向にあるという。前世紀初頭に築き上げられたアカデミズムの象徴としてのドイツ語の威光が、百年の時を経てようやくはっきりと衰え始めたということだろう。ドイツは確かに今でも優れた学問の拠点であるが、世界の中心としての地位は、アメリカに奪われて既に久しい。
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