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望雲録

のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

カテゴリー「日本とドイツ」の記事一覧

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S・A閣下のベルリン(7)

 木戸ら一行がアメリカを経て欧州に渡り、ロンドンに到着したのは明治五年七月十三日のことである。青木は木戸からの呼び出しを受けてロンドンに赴く。青木は足しげく木戸を往訪しここぞとばかりに自身の西洋理解の深さを披露する。

 たとえばまず木戸は「欧米人はなぜ宗教に熱心なのか」と問う。米国での条約改正交渉が不調に終わった原因の一つとして、「日本のように無宗教でキリスト教を信じない国と相互対等の条約など結べない」とする米国人の主張を耳にしたからだという。青木はギリシア・ローマの多神教時代、ローマ帝政期の道徳的荒廃からはじめて、「人類の救世主」としてのイエス降誕とローマでの国教化を説明し、キリスト教こそが現代欧州の精神的基盤となっているのだと説く。「ならば日本も陛下をはじめキリスト教に帰依すべきか」と問いかける木戸に対し、青木は決然と答える。

「新に一の宗旨に帰依し、又は固有の宗旨を棄てて他の宗旨に帰依することは、其の事の是非は暫く問はず、従前の確信を掃蕩し、もしくは廃滅するの事たる、人生の最も難んする所にして、彼の三十年の戦争は、実に此の如き原因の為に起りしなり。しかして当英国に於ては、第十五世紀間、ヘンリー第八世、一種の権謀を以て基督旧教を排斥し、種々の困難を経て漸く基督新教国となれりと雖も、国王貴族並に人民は、数世紀信仰せる旧教を全然排斥する能はず…其の他各国においても改宗或は新旧両派の軋轢、又は羅馬法王の干渉若くは圧迫に由り、悲惨なる内乱の発生せしこと実に枚挙に暇あらず。」(『自伝』、以下同じ)

 すでに欧州史の概略が、それも決して表面的な理解にとどまらない形で、青木の頭の中に修まっていたことをうかがわせる。

 また木戸は「コンスチツーションとはどういう意味か。米国では「政府人民協同して政治を為すの意」と聞いたがどうか。」と下問する。青木の回答は正確である。

「『コンスチツーション』なる語はラテン語にして、『一国の基本法律』と云ふ意味なり。故に其の政体の君主専制たるとはた官民共和たるを問はず。国あれば必ず『コンスチツーション』なかる可らず。徳川時代に於ける徳川氏の制度は即ち我邦の『コンスチツーション』なり。唯、洋の東西に依て法文の精粗繁簡及び自由主義の発現せると否との差あるのみ。」

 続いて青木は英国のマグナ=カルタ制定史、フランス革命からナポレオンの登場、四十八年革命と第二共和国憲法の成立、さらにはそのフランス革命思想の流入に影響されてのドイツ国内の三月革命と欽定憲法の成立の歴史を説明し、各国の憲法の相違を分かりやすく解説する。その上で平等・民主主義的志向の強い仏憲法を「浅薄」と糾弾することを忘れないのが青木らしい。

「仏人の唱導する自由主義可なり、一国兄弟主義亦不可ならざるも、全国住民を一括して之を権利同等の国民と認むることは、歴史上の階級及び財産の差等を無視するものにして、仏国主義は、畢竟、社会の秩序を根本的に打破するものなり。」

 さらに青木は「コンスチツーション」と「自治制度」の関係についての質問に答え、以下のように述べている。

「行政区域の政務は実に広汎にして、自治制度の如き、僅に其の一小部分に過ぎず。先刻説述せし如く、『コンスチツーション』は一国の基本法にして、国家一日も欠くべからざるものなれども、之を輓近各国に通ずる思想に拠て制定せんとせば、其の前、先ず国の根幹を培養する為め、行政区域の全般に亘り一定の組織的法律を制定するを以て第一の要務とす。」

 青木はすでに近代国家の本質の何たるかを掴んでいる。そして何より明治政府が手がけるべき当面の課題が、行政機構の確立と行政法の整備を通じて国家としての骨格を作り上げる作業であることを見抜いている。青木は初心に違わず、国家の学としての政治学を驚くべき速度で理解吸収していたのである。

 木戸は青木とのやり取りの中で幾度も感極まり、落涙したという。新しい「国のかたち」を巡る暗中模索の中、木戸は青木との対話を通じ、初めて今後の大事業のためのよすがを得た思いがしたのかもしれない。

 こうして木戸の信頼を一層深めた青木は、翌明治六年一月、ベルリンに滞在しながら外務省に雇用され、駐独一等書記官に任ぜられる。当時はまだ駐独公使がいなかったので、事実上青木が全権を代表することになった。

 その後のドイツでの活躍も面白いところはあるが、ここはひとまず、青木周蔵という一留学生の成果が最も鮮やかに表出しているこの木戸との問答をもって、この記事の結びとする。

 日独関係の入口に青木のような人材がおり、その個性の強さと才覚とが戦前日本のドイツ傾斜により拍車をかける役割を担ったであったろうことは、後世この両国の狭間に立つ立場の者にとって記憶に値する事実だと思う。

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S・A閣下のベルリン(6)

 普仏戦争後に大挙して押し寄せた留学生の数は一時期100人を超えたという。その中には桂太郎や平田東助など、のちの山県長州閥の礎になるような重要人物の名も見受けられる。

 ところでこの平田東助、本来はドイツではなくロシアへの留学を命じられていた。ところが青木は平田を含むロシア留学生がベルリンに立ち寄った折に、「ロシアは学問にふさわしくない。ドイツに残って勉強しなさい」と説得するのである。加えて青木は医学・軍事学を学ぶよう派遣されてきたドイツ留学生たちに対しても、より多様な形で文明を摂取するために、政治学や経済学、商工業への専攻の変更を迫る。

「一国の文明は単に医学若しくは兵学の研究のみに依て増進するものにあらざるが故に、予は幾多の留学生をして、各其の長所若しくは嗜好に従ひ、或は政治、経済の学を修め、或は各種の工業を実際的研究せしむるは、寧ろ国家が広く知識を世界に求め国運の隆興を計らんとして多数の留学生を海外に派遣するの主旨に副ふものと思惟せし」(『自伝』)

 もっともと言えばもっともな理屈だが、自らの専攻変更が問題になったにも関わらず他の留学生に政府命令違反を勧める度胸には頭が下がる。強固な信念と言うべきか、独善と言うべきか。
 結局青木の説得を聞いて研修地や専攻を変更した者も多い。こうした留学生の知見が帰国後に具体的な形で実を結んだ例も、林業、製紙業、繊維業など様々な分野で複数例存在する。結果を見る限り、青木の人間観察力と洞察力は決してあなどれないものがあったようである。

2f3cb248.jpeg ユニークな例としてはサッポロビールの創始者中川清兵衛の例がある。彼は幕末に密航者として欧州に渡り、とあるドイツ人家庭で家僕として働いていたところを青木に「発見」される。留学生の資金を預かっていた青木は、その運用で生じる利子を融通して中川に与え、当時最大手のビール醸造会社ベルリンビールの工場で修行させる。厳しい修行を終えて帰国した中川は青木の推薦で北海道開拓使に醸造技師として雇われ、のちの日本ビール界の基礎を築くことになるのである
(左は中川が醸造所から贈られた修了証書)。

 もちろんこうした青木の「暴断」に対する反発や非難は日増しに大きくなったため、「その後は意見を求める者に限り適宜回答を与えた」という。もっとも青木は自伝の中で自分が専攻を変更させた留学生たちの帰国後の活躍を自慢げに書き連ねている。彼らの活躍を耳にするにつけ、「見たか」と自分の指導の正しさへ確信を深めていたことだろう。

 こうしてドイツを通じた明治日本近代化が軌道に乗りつつあった明治五年の夏、岩倉遣欧使節団が欧州を訪問することになる。随員には維新三傑の一角にして長州閥総帥、木戸孝允がいた。青木は留学前より木戸との繋がりは深い。木戸は欧州の政治、社会について数々の質問を投げかけるが、それに対する回答―もちろん自伝は後世に書かれたものであるので多少脚色はあるだろうが―には、青木の政治学修学の成果が満ち溢れている。


S・A閣下のベルリン(5)

 青木が大学で政治学の勉強を始めた頃、日本より山県有朋がベルリン視察に訪れる。当時山県は横死した大村益次郎の後任として明治日本の軍制改革を担当することとなり、各国の軍事制度を研究する必要に迫られていたのである。もちろん山県は青木にとって長州閥の先輩に当たる。

 この山県視察団の随員の中に山口藩政府(旧長州藩)の役人がいた。彼は青木が政治学に専門を変更したことを聞き及び、「恣に藩命を変更するとは何事か」と詰問する。答えに窮した青木は「自分は藩命の通り医学を勉強している」と偽り、佐藤や萩原から医学書や人骨資料などを借り受け、それを示しつつ適当な説明をでっちあげて場を凌いだという。

 もっとも後日青木は山県に直接事情を説明し、藩庁に斡旋を請い、その許可を得ることに成功する。そればかりか青木は山県にプロイセンの軍制、国民皆兵制、地方自治制度について解説し、当時の普国外務省の役人に頼んでこれら制度の詳細な講義を依頼し、自ら通訳を務めたりと、熱心に山県の視察活動を支援したのである。山県はこれらの解説に深く聞き入り、大いに感じるところがあり、プロイセンの行政制度全般に対し強い関心を持つに至ったという。

 のちに山県は徴兵令、市町村制、文官任用令など数多くの行政制度の構築に尽力することになるが、それはいずれもプロイセンの制度を主なモデルとしたものである。その意味でこの青木のドイツ知識と熱心な斡旋は山県を通じ明治日本の進路に無視できない影響を与えたといってよい。何より彼の語学力の高さと政治制度に対する感覚の鋭さには脱帽させられる。当時の劣悪な学習環境の中、わずか一年余りで「地方自治」や「国民皆兵」と言った当時の日本では影も形もなかった概念を正確に理解し、またそれを口頭で逐次通訳するだけの能力を身につけていたのは驚嘆に値する。

 山県がベルリンを立ったのち、7月に普仏両国の関係が一気に緊張し、有名なエムス電報事件によって普仏戦争が開始される。

「予は、外国人として、自ら公平の見地に立つことを得るが為めか、将又、身、普国に在るを以て、知らず知らずの間に普国に同情を寄するに至りしが為か、胸中普国の勝利を確信して疑はず。仏国人が自国を以て世界の最大文明国と誇称して憚らざるを憎み、此の際、其の頭に一撃を加ふるは、欧州列国の利益なりとし、密かに両国国交の断絶を祈りし」(『自伝』)

 強烈な反フランス宣言だが、これは青木の反骨精神と軌を一にするものだろう。

 いよいよ開戦が迫った七月十四日の夜、青木は「祝杯をあげよう」と萩原、佐藤の両人を誘ってビール醸造所にでかける。「いったい何のお祝いなのか」と問う萩原に対し、青木は「今度の戦争でプロイセンが勝利し、それがひいては日本の利益にも繋がるから祝うのだ」と言う。

「凡百の学科を修むるに於て、独逸諸邦に優るの国なきは、足下も今日の自己の経験に依て知る所なるべし…今回普国にして勝利を博せば、我国留学生の方針も自ら一変し、続々独逸に留学する者多かるべく、従て、将来日本に於ても、独逸に於ける如き主義正確にして、秩序精密なる学問行はるるに至るべし。是れ、予の喜びに堪へざる所なり。」(『自伝』)

 果たしてこの普仏戦争を境にプロイセンに対する明治政府の関心は一気に高まることになり、それまで英仏米中心に振り分けられていた留学生もドイツに大きく傾いていく。大量に増えた留学生を監督するため、青木は「留学生総代」としての地位を与えられ、彼らの生活や学問の世話、金銭の管理を担当することになる。

 明治初年、まだ無名だった「辺境の小国」に目をつけ、苦労してリスクの高い留学を敢行したという思いがあるだけに、青木の感慨も一塩だったろう。普仏戦争におけるプロイセンの勝利は明治日本の進路変更であったと同時に、青木の人生が高らかに飛躍した瞬間でもあった。


S・A閣下のベルリン(4)

 青木周蔵はどうも激情家で、自己に対しても他人に対しても思い込むところの激しい人物であったらしい。ただそれは裏を返せば意志の強靭さということでもあり、漱石や鴎外などが感じた身につまされるような不安や孤独を感じた形跡は、少なくとも自伝からは読み取ることができない。不安や孤独を感じないはずはないが、少なくともそうした弱音めいたことを書きとめるのは潔しとしなかったのだろう。青木は厳密には武士ではないが、攘夷の熱気逆巻く長州の空気を存分に吸った志士的気分が横溢した人物である。

 青木と萩原が語学の勉強に励んでいたであろう一八六九年(明治二年)十月、新たに医学者の佐藤進という人物(のちの順天堂三代目院長)が到着する。三人はしばらく同じマース邸に逗留することになるが、佐藤関連の文献には当時三人がいかに語学の勉強に取り組んでいたかが分かる記述が見受けられて実に面白い。

 たとえば彼らはマース邸で夕食を終えるとベルリンのビアホールにくり出す。

「テーブルを構へて一人でビールでも飲んで居りますと、独逸人は何だ変わった人が来た、何処の人であるか珍しいといふて、ビールのコップを持ったなりで、私の所へ多勢集まって来る。」

 日常会話の練習の機会を酒場に求めたわけである。しばらくしてから彼らはやはり日常会話の練習のためと称し、別々に下宿するようになる。日本人同士が固まる状況では進歩は望めぬと考えたのだろう。

「市せいに於ける会話の練習は大学に於ける教課よりは苦しい勉強であった。」

 立場も時代も違えど、私も全く同感である。

 青木はベルリン到着後ちょうど一年後にあたる明治三年(一八七〇年)春にベルリン大学に入学し、念願の政治学の勉強を始めることになる。当時の語学環境を思えばわずか一年で大学の学問レベルの語学力を習得したわけで、かなりの上達速度といっていい。萩原や佐藤の専門は医学であり、彼らは日本滞在中から蘭学を通じて医学の基礎知識を身につけていたわけだから、語学力不足もある程度補うことができたろうと思うが、青木の場合はなんといっても「政治学」である。当時の日本人には未知の学問といってよい。
 「いきなり大学は厳しい。高等中学(
ギムナジウムのことか?)の基礎レベルから勉強した方がよくはないか。と忠告する人もいたようだが、そこは一本気な青木のことで頑として譲らず、さっさと大学生活をスタートさせてしまう。

 ところで青木はもともと「医学」を修めるという名目で藩から留学費を拠出されていた。しかるにいきなり政治学を勉強するなどということは藩命違反である。現地に監督する機関も責任者もいないので勝手が効いたわけだが、これはのちにちょっとした問題となる。


S・A閣下のベルリン(3)

 青木は他の欧州留学者とともに十二月フランスはマルセイユに到着する。この間引率のプロイセン領事リンダウが病に倒れたため、青木たちは当初の予定を変更してマルセイユ、パリに数か月滞在することとなる。美しい街並みもさることながら、彼が最も感動させられたものは「軍隊」であったというから、当時の留学生たちの国士然とした雰囲気がうかがいしれる。

「時正に那翁三世の全盛期に属し、新に伊太利の戦役に勝利を得たる仏帝は、欧州の覇権を掌握せんとする虚勢を張り、従て其の軍隊は堂々当る可からざるの観あり。依て予は我日本にして此の如き精鋭の軍隊を有せば、王政復古更始一新の事易々たらんのみ、嗚呼我国は何れの日か果して能く此の域遇に達すべけんと、心密に羨望しつつ、一日も早く我が国運の発達せんことを祈れり。」(『青木周蔵自伝』)

 パリに滞在するうちに知り合いになったフランス人の中には、「ドイツみたいな片田舎に行ってどうする。パリにとどまった方が良い」と主張するものもあったと言う。だが青木は頑として自説を曲げず、リンダウ領事の回復を待ってようやく4月にドイツ入りを果たす。ベルリンへの道すがら、ハノーファーで乗り換え列車を待つ間、彼は思いがけずプロイセン軍の軍事教練を目にし、強い衝撃に打たれる。

「服装は素朴なれども身幹長大の兵士が、軍容堂々一歩毎に地盤を動かすが如き力ある歩調を以て進行し、恰も鬼群の運動を見るが如くなりき。」

 ベルリンに到着後も青木のプロイセン軍熱は冷めない。

「普国兵の質朴強顕なる、ごうも仏国兵に見るが如き軟弱の態度を存せず。其規律厳正にして、一点の弛緩なき、予等門外漢と雖も、密に仏国軍隊は到底普国軍隊の好敵手にあらざるを察知せり。…其の様、恰も我国武士の態度に似たり。」(『同上』)

 後年青木は「独逸翁」「独逸の化身」と揶揄されるほど熱狂的なドイツ信奉者になるが、意気盛んなプロイセン軍人の雄姿は彼の原風景なのであろう。

 こうして青木のドイツ留学生活が幕を開けるわけだが、とはいえいきなり専門の勉強を始められるわけもなく、まずは語学との戦いである。当時はもちろん語学学校などといった気の利いたものはない。それどころか独和辞書すらないわけだから、恐らくは蘭和辞書と独蘭辞書を合わせ使って単語を解していったのだろうと推察される。

 青木は一人で渡航したわけではなく、同行人に萩原三圭という人物がいた。萩原は土佐出身の医家で、帰国後は東大教授となり小児科の権威となる。二人は当初、リンダウの紹介でマースと言う小学校教師の家に居候し、ドイツ語学習に専念することになる。今風に言えばホームステイである。地球の裏側の異人の家で床についた彼らの不安の大きさ、心細さは如何ほどのものであったか。文明社会に生きる我々には想像もつかない。


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読書、旅行
自己紹介:
三度の飯より政治談議が好きな30間近の不平分子。播州の片田舎出身。司馬遼太郎の熱狂的愛読者で歴史好き。ドイツ滞在経験があり、大のビール党。
[12/16 abuja]
[02/16 einjapaner]
[02/09 支那通見習]
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