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望雲録

のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

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S・A閣下のベルリン(6)

 普仏戦争後に大挙して押し寄せた留学生の数は一時期100人を超えたという。その中には桂太郎や平田東助など、のちの山県長州閥の礎になるような重要人物の名も見受けられる。

 ところでこの平田東助、本来はドイツではなくロシアへの留学を命じられていた。ところが青木は平田を含むロシア留学生がベルリンに立ち寄った折に、「ロシアは学問にふさわしくない。ドイツに残って勉強しなさい」と説得するのである。加えて青木は医学・軍事学を学ぶよう派遣されてきたドイツ留学生たちに対しても、より多様な形で文明を摂取するために、政治学や経済学、商工業への専攻の変更を迫る。

「一国の文明は単に医学若しくは兵学の研究のみに依て増進するものにあらざるが故に、予は幾多の留学生をして、各其の長所若しくは嗜好に従ひ、或は政治、経済の学を修め、或は各種の工業を実際的研究せしむるは、寧ろ国家が広く知識を世界に求め国運の隆興を計らんとして多数の留学生を海外に派遣するの主旨に副ふものと思惟せし」(『自伝』)

 もっともと言えばもっともな理屈だが、自らの専攻変更が問題になったにも関わらず他の留学生に政府命令違反を勧める度胸には頭が下がる。強固な信念と言うべきか、独善と言うべきか。
 結局青木の説得を聞いて研修地や専攻を変更した者も多い。こうした留学生の知見が帰国後に具体的な形で実を結んだ例も、林業、製紙業、繊維業など様々な分野で複数例存在する。結果を見る限り、青木の人間観察力と洞察力は決してあなどれないものがあったようである。

2f3cb248.jpeg ユニークな例としてはサッポロビールの創始者中川清兵衛の例がある。彼は幕末に密航者として欧州に渡り、とあるドイツ人家庭で家僕として働いていたところを青木に「発見」される。留学生の資金を預かっていた青木は、その運用で生じる利子を融通して中川に与え、当時最大手のビール醸造会社ベルリンビールの工場で修行させる。厳しい修行を終えて帰国した中川は青木の推薦で北海道開拓使に醸造技師として雇われ、のちの日本ビール界の基礎を築くことになるのである
(左は中川が醸造所から贈られた修了証書)。

 もちろんこうした青木の「暴断」に対する反発や非難は日増しに大きくなったため、「その後は意見を求める者に限り適宜回答を与えた」という。もっとも青木は自伝の中で自分が専攻を変更させた留学生たちの帰国後の活躍を自慢げに書き連ねている。彼らの活躍を耳にするにつけ、「見たか」と自分の指導の正しさへ確信を深めていたことだろう。

 こうしてドイツを通じた明治日本近代化が軌道に乗りつつあった明治五年の夏、岩倉遣欧使節団が欧州を訪問することになる。随員には維新三傑の一角にして長州閥総帥、木戸孝允がいた。青木は留学前より木戸との繋がりは深い。木戸は欧州の政治、社会について数々の質問を投げかけるが、それに対する回答―もちろん自伝は後世に書かれたものであるので多少脚色はあるだろうが―には、青木の政治学修学の成果が満ち溢れている。

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三度の飯より政治談議が好きな30間近の不平分子。播州の片田舎出身。司馬遼太郎の熱狂的愛読者で歴史好き。ドイツ滞在経験があり、大のビール党。
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