のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
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青木周蔵はどうも激情家で、自己に対しても他人に対しても思い込むところの激しい人物であったらしい。ただそれは裏を返せば意志の強靭さということでもあり、漱石や鴎外などが感じた身につまされるような不安や孤独を感じた形跡は、少なくとも自伝からは読み取ることができない。不安や孤独を感じないはずはないが、少なくともそうした弱音めいたことを書きとめるのは潔しとしなかったのだろう。青木は厳密には武士ではないが、攘夷の熱気逆巻く長州の空気を存分に吸った志士的気分が横溢した人物である。
青木と萩原が語学の勉強に励んでいたであろう一八六九年(明治二年)十月、新たに医学者の佐藤進という人物(のちの順天堂三代目院長)が到着する。三人はしばらく同じマース邸に逗留することになるが、佐藤関連の文献には当時三人がいかに語学の勉強に取り組んでいたかが分かる記述が見受けられて実に面白い。
たとえば彼らはマース邸で夕食を終えるとベルリンのビアホールにくり出す。
「テーブルを構へて一人でビールでも飲んで居りますと、独逸人は何だ変わった人が来た、何処の人であるか珍しいといふて、ビールのコップを持ったなりで、私の所へ多勢集まって来る。」
日常会話の練習の機会を酒場に求めたわけである。しばらくしてから彼らはやはり日常会話の練習のためと称し、別々に下宿するようになる。日本人同士が固まる状況では進歩は望めぬと考えたのだろう。
「市せいに於ける会話の練習は大学に於ける教課よりは苦しい勉強であった。」
立場も時代も違えど、私も全く同感である。
青木はベルリン到着後ちょうど一年後にあたる明治三年(一八七〇年)春にベルリン大学に入学し、念願の政治学の勉強を始めることになる。当時の語学環境を思えばわずか一年で大学の学問レベルの語学力を習得したわけで、かなりの上達速度といっていい。萩原や佐藤の専門は医学であり、彼らは日本滞在中から蘭学を通じて医学の基礎知識を身につけていたわけだから、語学力不足もある程度補うことができたろうと思うが、青木の場合はなんといっても「政治学」である。当時の日本人には未知の学問といってよい。
「いきなり大学は厳しい。高等中学(ギムナジウムのことか?)の基礎レベルから勉強した方がよくはないか。」と忠告する人もいたようだが、そこは一本気な青木のことで頑として譲らず、さっさと大学生活をスタートさせてしまう。
ところで青木はもともと「医学」を修めるという名目で藩から留学費を拠出されていた。しかるにいきなり政治学を勉強するなどということは藩命違反である。現地に監督する機関も責任者もいないので勝手が効いたわけだが、これはのちにちょっとした問題となる。
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