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望雲録

のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

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ドイツ議会制の特徴(3)~大連立の経緯

 ドイツにおける大連立(Die große Koalition) はキリスト教民主党/社会党(CDU/CSU)と社会民主党(SPD)による連立政権を指す。2005年9月18日の連邦議会選の結果、CDU首班メルケルを首相とするドイツ史上二度目の大連立政権が誕生したことについては、当時の日本でも比較的大きく報道された。

 ちなみにこの選挙は先に述べた「信任投票の否決」の禁じ手を時のSchroeder_gerd.jpgシュレーダー首相(右)が敢行したことによる連邦議会の任期前解散によって実施された。当時のシュレーダー政権の構成はいわゆるSPDと緑の党の連立政権であり、選挙戦はこの赤緑連合(Rot-Grün)とCDU/CSUと自由民主党(FDP)の連合である黒黄連合(Schwarz-Gelb)の衝突という形をとった。ちなみに事前に連立構想を明確にして選挙戦を戦うことはこの国では珍しくないが、この場合はもちろん事後の交渉の余地が狭まる。この選挙ではFDPがCDU/CSUとの連立を目指すことを事前に明確にしていたが、緑の党は連立の可能性につき明言を避けていた。

 選挙結果はSPDが逆風の中予想以上に健闘して222議席、CDU/CSUが伸び悩んで226議席と極めて拮抗したものとなり、選挙後にシュレーダーもメルケルも政権構築への意欲を示した。さらに注目すべきは左翼党(Die Linke)が5%条項の壁を突破し、54議席を獲得したことである。前述したとおり、この政党は旧東ドイツの独裁政党の系譜をひき、かつSPDからの造反組も含まれるなどの事情もあって、CDU/CSU、SPDのいずれからも連立の交渉相手としては排除されていた。結果、伝統的な「規模の異なる二政党による連立」では過半数を構築できず、3政党による連立か大連立かに選択肢は絞られることとなったのである。

 選挙からひと月が経過し、3政党による連立構想がいずれも挫折した後、10ed9b8ea5jpeg月にCDU党首メルケル、CSU党首シュトイバー、首相シュレーダー及びSPD党首ミュンテフェリングの四者会談が行われた。この会談は「腹の探り合い会談(Sondierungsgespräch)」などと称され、他者を排し首相官邸において内輪だけで行われた。会談翌日の合同記者会見で、「メルケル首相」の下での連立に向け交渉を開始する旨の首脳間合意がなされたとの発表がなされた。ここに大連立への道筋が初めて明確に示されたことになる。
 しかしこれで事態が丸くおさまったわけではなく、戦線は党内説得に移行することになる。とりわけSPD内ではこの合意に対する反発が強く、これを受けてミュンタフェリングは総裁職を辞任することになる。(左は会談後の記者会見、シュトイバーCSU党首、メルケルCDU党首)

9ef0b9bdjpeg 党内での対立を抱えつつ、一方では組閣後の政策の擦り合わせが行われた。26日間もの協議を経て、11月18日、両会派間で連立合意(Koalitionsvertrag)が結ばれ公開された。「共にドイツのために」と題されたこの合意文書はあらゆる政策分野を網羅し、実に130ページに及ぶ労作である。首班のサインが入ったこの文書はもちろん単なる紙切れでなく、現在でも政府内の意見対立に際ししばしば引用される。(左は調印式。3党の党首。)


 紆余曲折を経て、11月22日、ようやく連邦議会においてメルケル首相が誕生した。予想通り多くの造反議員のため、賛5de8323cjpeg成票の数は397票と、両会派総議席数の448を大幅に割り込んでいた。
 ただともかくも、バランスの悪い選挙結果を克服して、政権は成立した。順調な船出とはいえないが、選挙後足かけ2か月にわたる神経戦の幕が引かれ、難解な多元方程式の解が一つ、導かれたのである。

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ドイツ議会制の特徴(2)~政党システム

  「期限による安定」も、零細政党が乱立する状況ではその効力を減殺される。政権政党の数が増えるほど、連立組み替えによる政権交代の可能性が向上するからである。通常、比例代表制では多様な民意が尊重される代わりに常にこうした不安定を覚悟せねばならない。ドイツ基本法はこれを5%条項と建設的不信任案の二つの防壁で防ぐことを意図しているわけだが、実際の政党システムが果たしてきた役割も大きい。
 
 現在連邦議会に進出している会派は5つに限られる。キリスト教民主同盟/社会同盟(CDU/CSU)、社会民主党(SPD)、自由民主党(FDP)、緑の党(Die Grünen)、左翼党(Die Linke)である。緑の党は右派的な環境運動と68学生運動の流れを引く左派人権派がまとまるMandatsverteilung_Bundestag_2005.jpg形で結成された政党で、連邦議会には1983年に進出した。左翼党は旧東ドイツの独裁政党であったドイツ社会主義統一党(SED)等を基盤として結成された政党で、2005年に連邦議会に進出、現在では旧西ドイツ各州議会にも議席を伸ばし始めている。(右は各政党のシンボルカラーに即した議席配分。)
 
 歴史を振り返ってみると1949年の第一回総選挙から1983年の第十回総選挙までの間、ドイツはいわゆる21/2政党制と称される通り、基本的にCDU/CSU、SPD、FDPの3会派しか存在せず、これらが選挙のたびに連立を組み換えながら政権を構築していたわけである。基本的に戦後ドイツでは全ての政権が連立政権である。規模の違う2政党による連立は安定しやすい。つい最近まで機能していたこの連立システムがドイツ政治の安定のもう一つの秘密であると思う。
 
 ちなみに建設的不信任は実際のところはなかなか発生しない。先に述べたとおり、解散総選挙によって国民の信が問えない状態で、一旦政策協議を経て連立を組んでしまった二政党が連立を解消し、昨日まで与野党として対決していた政党と連立を組みなおすのは、よほどの亀裂が生じない限り政治的に困難だからである。実際にこのシステムを通じて倒閣が成功したのは、FDPの連立組み替えによる1983年のシュミット政権(SPD)からコール政権(CDU)への移行のただ一度のみである。これはこの制度の功というよりはドイツの政党システムの成果といった方がよい。
 
Bundestag.jpg 現在ドイツでは上述の政党によるいわゆる「5政党システム」が定着しつつあるのだが、これは5%条項が十分に効果を発揮できていないという指摘がある。確かに5つの政党というのはやや過剰なきらいがあり、CDU/CSUとSPDの二大政党が小規模政党(大半がFDP)と連立して2政党による連立政権を構築するという、従来一般的であった連立パターンが成立しにくくなってきている。
 2005年の第16回総選挙はそうしたドイツ政党システムの変質を最も如実に示した選挙であり、その結果としてメルケル首相下の大連立政権が誕生するのである。

ドイツ議会制の特徴(1)~期限による安定

 さて、ドイツの話である。
Berlin_Reichstag_2005.jpg
 ドイツの連邦議会(下院)制度を特徴づけているのは一言で言えば「ワイマールの教訓」である。少数政党の乱立、倒閣のための不信任決議の連発といった事態が政治の流動化を招きナチスを台頭させたという反省に立ち、「安定」という要素を強く意識した内容となっている点が面白い(右はベルリンの連邦議会)。

 有名な5%条項(比例代表制選挙の下で5%の得票を獲得できなかった零細政党は議席を持てない)や建設的不信任案(内閣不信任は次期首班候補についての合意が形成された際にのみ可能)などの制度は、言ってみれば多党制による民意の吸い上げと個々の政権の安定とをいかに両立させるか、という問題意識に基づいていると解することができる。デモクラシーの過剰が議会政治を不安定化させることを身をもって体感したドイツ人が知恵を絞って生み出した、この国独自の制度である。

ff729beb.jpeg 重要なのは、ドイツでは基本的に首相は自由に議会を解散することができないということである。唯一可能になるのは「信任案の否決」の場面であり、与党議員にわざと自身の信任投票を否決させるというものである。この「禁じ手」的な解散方法は現在までに3回実施されたことがあるが、状況次第で違憲とみなされる可能性があり、敢行するには大きな政治的リスクを伴うためほとんど発動されることはない。憲法学者の間ではこの「信任案否決」の規定を通じた首相の自主解散は、制定者が意図したものではなく、単なる設計ミスであると理解されている。(左はベルリンの首相府

 戦後ドイツで開催された国政選挙の回数は16回、首相の数はわずか8人であり、これはイギリスなど他の議会制民主主義国家と比べても際立った安定性を示している(ちなみに戦後日本の衆院選は23回、総理の数は29人である。)。もともと連邦制、多党制をはじめ権力分散の傾向が強いドイツの政治構造の中で、個々の政権のパフォーマンスが決して低くないのは、議員任期である最低4年間という時間を政権が確保できるという、期限面での安定性に負うところが大きい。

 「民主主義とは期限付きの権力である(Die Demokratie ist Macht auf der Zeit)」の原則が、ドイツでは強く志向されているのである。


連立と解散権と安定政権(2)

 少し話がそれたが、ここでのポイントは何より首相の「解散権」にあることを強調しておきたい。

  政府首班がいつでも議会を解散できるという制度は元来二大政党制に親和的であり、大陸的な多党制にはそぐわない。多党制で解散権を導入した場合、与党内で政治闘争が発生する可能性が増大し、政権運営が極めて不安定になるからである。
 「ここで総理を追い込めば解散に持ち込めるかもしれない」という思惑を与党第二党が常に有しており、与党第一党も「すきあらば解散して政権から叩き出してやる」と考えている。選挙になれば当然お互い異なる主張を持つ政党として相互に票を奪い合うわけだから、お互いできるだけ自分に好都合なタイミングでの選挙の可能性を模索することになる。与党第二党には常に「連立離脱」という選択肢があり、政府首班を出している与党第一党を威嚇できる立場にある。こうした状況では政策をめぐる議論が容易に政局に転化し、安定しようがない。とりわけ大連立のように第一党、第二党の勢力が拮抗している場合、この傾向は顕著となる。
 従って今の日本で大連立が成立したとしても、それが中期的に安定したり、現実的なオプションとして定着することは難しいと考えるのが自然である。

 したがって、多党制を志向する国、すなわち潜在的政治対立を政権内に内包する連立政権が基調となる国で、安定的な政治を実現するには、政府首班の無制限の解散権を認めないことが肝要になる。政権に参画する政党全てに次期総選挙までの一定期間、与党としての地位―政治的休戦といってもよい―を保証するという時間面での措置を通じて、政権運営の安定性を補完することが不可欠となるわけである。政権の存続が時間的に固定されてしまえば、次の選挙が近づくまでは目の前の政策課題を議論し、交渉し、妥協する方向にエネルギーが注入されやすくなるのである。

 一方、二大政党制下の解散権は政権の安定に寄与する。

 通常二大政党制で政府首班が解散権を行使する場面は、すでに与党が単独多数を占めている以上、野党に向けられるものではなく、与党内、与党・政府間の政治的対立を国民の審判により解消することを意図したものである。解散決定権が終局的に政府首班に帰属する以上、基本的に二大政党制下の解散権は、政府が推進する政策に対する与党議員造反への強い威嚇効果を持つ。首相への国民的支持が高い場合この傾向はより顕著になる。
 逆に、野党の牽制がよく効いている場合、首相が与党内の権力抗争で「追い込まれ解散」する場合は少ない。首相が追い込まれる形で選挙になると、せっかく確保している多数を野党に奪われるリスクが非常に高くなるため、与党議員は不用意に政府を追い込めない。総辞職による与党内政権交代を迫る場合でも、捨て鉢で解散権を発動されるリスクは高い。従って支持率が低い首相であっても、解散権は与党議員の協力を促す方向に傾く。
 
 以上のように二大政党下の解散権は、通常、政府が与党を従属させ、政権運営を安定させるための抑止力として機能する。そして「抑止力」である以上、実際に解散が乱発され政治の安定性を失わせる方向に機能することは少ない。
 この点、郵政解散における小泉総理は解散権の本質的機能を非常によく見抜いていたわけだが、逆にいわゆる「抵抗勢力」側の議員はその正確な理解を欠き、選挙の第一公約を推進する国民的支持の高い総理に楯突くという愚を犯した(もっとも衆議院では抑止力が効いたと言えるが)。結果抑止力であるはずの解散権が実際に発動されてしまい、不自然に歪んだ議席配分を招くことになってしまった。民主党こそいい迷惑であった。

 日本の解散権は、55年体制という特殊な政治システムの文脈に強く依存している。自民党は中選挙区制下の「疑似多党制」としての派閥政治の力学から頻繁に首相が―往々にして「追い込まれ」―衆議院を解散した。野党第一党である社会民主党による政権交代の可能性が想定されておらず、その牽制が全く効かないという特殊な条件があったので、派閥領袖は安心して権力闘争に奔走することができたのである。90年代の政治においても、解散権は旧来型の理解の延長線上で捉えらえ行使されてきた。また「審議拒否」をはじめとする、政策議論ではなく国会運営手続きで対立を「演出」するという独特の政治慣習(これも万年野党の社会民主党が苦肉の策として発展させてきたものである)が、閉塞状況の打開策としての解散の意義を強めた。そうした中、小泉総理は政府首班に与党を従属させる手段としての解散権の意義を極めて明確な形で実証したといえる。

 解散権というシステムが日本の議会制度にビルトインされている以上、日本政治の安定という観点からは、小選挙区制の維持を通じた二大政党制の促進は一応セオリーに則ったものであると言える。もちろんこれは参議院問題その他数多くの問題を解決する万能薬ではない。

連立と解散権と安定政権(1)

 少し前の話になるが、昨年福田内閣が発足した直後に起こった「大連立騒動」には、日本を離れている身としても非常に興味をそそられた。大きく眺めてみれば問題の根底にあるのは二大政党制か多党制か、小選挙区制か中選挙区制かという政党システムの問題ではなく、参議院の立法機関としての位置づけの不透明さという、自民党支配の下で覆い隠されていた戦後憲法の構造的欠陥が噴出したもの、というのが個人的な所見である。その意味でドイツの連邦議会(Bundestag)における「大連立(die grosse Koalition)」は比較対象として適切ではない。二院制の意義が全く違うドイツでは、そもそも連邦参議院(Bundesrat)は民選ではないし、「ねじれ現象」も存在しないのである。
 だが日本においてもドイツにおいても、大連立という特殊な政治現象は議会政治や議院内閣制について考える上で様々な興味深い論点を提示してくれる。

 今回の「大連立構想」は、結局民主党幹部の反対により失敗に終わったわけだが、当初からあまりにも政治的動機が前面に出ている話だったため、仮に成立していたとしても長続きはしなかっただろう。むしろ小沢党首の狙いは大連立を構築することでいったん自民・民主党議員を総与党化することを通じ、政治対立の軸を「政権交代」から「政策選択」に移すことにあったと思う。

 与党となった民主党にとっては「政府提出法案には何でも反対する」という選択肢は消失する。一方議会における自民党・民主党の過剰議席は自然と個々の議員に対する党議拘束の重みを失わせ、もともとイデオロギー的に一枚岩でない両党の内部における党の敷居を超えた離合集散の可能性を飛躍的に高める。
 小沢党首が「党内合意を取り付けずに」福田総理に呑ませた自衛隊海外派遣法案などは、こうした亀裂を生みだすのに格好の素材なのである。そうでなくても政権に参画し大臣のポストを確保しさえすれば、イデオロギー対立を惹起するような大きな政策課題を好きな時に提示し、閣議決定を迫ることができる。それを契機に閣内不一致、解散総選挙に持ち込み、政策対立を軸にした選挙戦を実施することで、政策志向に基づいた二大政党制を実現する―。恐らくこの「壊し屋」にはそこまでの読みがあったのではないか、と思っている。

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自己紹介:
三度の飯より政治談議が好きな30間近の不平分子。播州の片田舎出身。司馬遼太郎の熱狂的愛読者で歴史好き。ドイツ滞在経験があり、大のビール党。
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