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望雲録

のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

カテゴリー「政治」の記事一覧

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元首の政治利用(3)

 その観点からは、今回の民主党政権の対応は、拙劣極まりないものであったと言わざるを得ない。
 
 なるべく「一ヶ月ルール」の趣旨を傷つけない形で、習副主席の特例会見を実現する知恵はいくらでもあったと思う。事務方の技術的なミスということにしてもよい。そもそもこのルールの存在自体、この事件以前に知っていた人間がそれほど大勢いたとも思えない。この騒動に油を注いだのは、間違いなく羽毛田宮内庁長官と小沢一郎幹事長の、二つの記者会見であったと思う。

 14日の記者会見で小沢幹事長が示した、
天皇陛下国事行為は内閣の助言と承認で行うことだ。それを政治利用だとかいったら天皇陛下、何もできないじゃない。内閣に助言も承認も求めないで、天皇陛下が勝手にやんの?」

という見解は、天皇に主体性などない、内閣の指示に従っていればそれでいいと言わんばかりの物言いである。憲法の解釈はともかく、問題は天皇は一個の主体として政治から超越した独自の領域を作りあげており、そこには圧倒的な国民の支持があるという事実である。小沢幹事長の発言は、法律論として突き詰めればそうかもしれないが、字義通りにそれを押し進めていけば、天皇は単なる操り人形の地位に貶められ、その権威を失いかねない。
 
 また、
天皇陛下ご自身に聞いてみたら『手違いで遅れたかもしれないけれども会いましょう』と必ずおっしゃると思うよ」

という発言も、かなりきわどい。陛下の意図を勝手に忖度し、それを以てルールの例外化の根拠とするというのは、天皇に対中外交の重要案件の事実上の決定権を委ねると言っているに等しい。天皇制の抜本的変質に繋がりかねない発言である。
 
 小沢幹事長は、一ヶ月ルールを超えて、本気で天皇を従来の自民党政権とは異なる方針で利用しようと考えていたのだろうか。それに伴う天皇制の毀損を上回る、大きな国益が得られるという政治判断があったのだろうか。それを実行するに伴う、巨大な政治的リスクを考慮したのだろうか。
 
 そうではなかろう。事の真相は単なる感情的な記者との売り言葉買い言葉である。しかし、本来は局地的な政策判断の問題である一ヶ月ルールの問題を、天皇制をめぐる一般論に不用意に繋げてしまったことは、民主党政権が単なる1ルールの運用の問題に留まらず、天皇制の毀損というマイナスを顧みずに、今後もなし崩しに天皇の政治利用を進めていくのではとの懸念を生み出さざるを得なかった。
 
 問題を一ヶ月ルールの運用に絞り、謙虚な態度で「ルールを破りまことに心苦しいが、政治的重要性に鑑み…」と主張していたら、問題はこれほど大きくなっただろうか。これほど老練の保守政治家が、なぜ天皇制そのものを議論の俎上に乗せることがはらむ政治的リスクを理解していなかったのか、正直理解に苦しむ。

 一方で、小沢幹事長の羽毛田宮内庁長官への批判は、感情的ではあるが、正鵠を得ている。
 
 この人物は過去にも何度か天皇や皇室の在り方に関する意見を述べ、物議をかもしたことがある。私は彼の行動は、高度な専門知識を根拠にしたプロフェッショナルとしての使命感から来るもの、という文脈では捉えるべきでないと思う。羽毛田長官は皇室の専門家でも何でもない。彼の「反乱」の根拠は、宮内庁長官という、皇室事務の所管官庁の長としての皇室との距離の近さ、それにかかる情報の独占という一点にしかない。

 一厚労官僚が天皇とマスコミの間に立ち、あたかも自分一人が正統な天皇制の擁護者であるかのように、天皇を取り巻く制度や事情に関し個人的な見解を公の場で垂れ流す。(自分が思うところの)皇室の在り方、天皇の意思を体現していれば、例え内閣が相手でも独立的に行動し意見を述べて構わないという発想は、内閣の意向を無視しもの言わぬ陛下の意向を体現していると称して暴走した、軍部を含む戦前の「天皇の官吏」達の発想と、構造的には何ら変わるところがない。

 役人が仕える対象は国家であり、具体的には民意を受け成立した政府なのであって、断じて天皇ではない。今回の騒動は羽毛田長官の記者会見で政府部内での機微な調整過程を意図的に表沙汰にしたことで波紋が大きくなり、結果的に日本の外交政策、皇室政策双方を大きく傷つけた。羽毛田氏個人の信念、陛下への忠誠心には共感の余地があるかも知れないが、役人としての彼の行動は政府部内の統一的な政策遂行を混乱させたのみならず、戦後の民主主義の理念に真っ向から反逆しかねない危険性をはらむものであり、厳しく糾弾、処罰されて然るべきものである。
 
 結果として、今回の「特例会見」は、苦労してルールを例外化して実現したほどの意義、リターンとしての国益がもたらされたのかどうか。一連の騒動で日本国民の「民主党対中弱腰外交」への反発が相当高まったことに疑いの余地はない。この騒ぎを見た習近平副主席の対日感情が好転したとも思えない(もっとも、それは彼の狙いとは無縁かもしれない。)。
 天皇制という極めてデリケートな問題にはらむリスクを正しく認識せず、その扱いを間違えたことが、回り回って外交政策の失敗につながったと言ってよい。今後、民主党政権はいつまた火を噴くか分からない国民の反中感情に後背を脅かされながら、恐る恐る外交を進めなくてはならない。
 
 私は天皇や皇室を聖域化する気は全くない。それは日本国の制度の一つであり、断じて国益そのものに先立つものではない。私は今上陛下という個人に対し強い畏敬の念を持っており、皇室を維持すべきとの考え方も強く支持するが、全ての日本人が同じ思いだとは思わない。日本の国益から考えてあるべき天皇や皇室の姿、その存在意義について、もっと積極的に議論する空気があって良いと思う。
 
 しかし、同時に天皇や皇室という制度が、歴史と経緯の中で生成されてきた日本の独特の分かりにくさを持つ制度であること、そこには法律の文面上に現れぬ黙示の制度原理があること、そして同時に極めて政治的揮発性の高い案件であることを理解せねばならない。特にハイレベルで政治に携わる者は、天皇制に触れるに当たっては、自身の言動一つ一つが大きな政治的リスクをはらみ、他の政治案件に飛び火して致命的な影響を与えかねないことを踏まえ、慎重に慎重に事を運ばねばならない。

 もしそのことに今の民主党政権が気づいていないとすれば、小沢幹事長の言葉通り、うわべの憲法論でしか天皇制に対しての理解を持ち合わせていないのだとすれば、どうか。

 陛下の韓国訪問という話も取り沙汰される昨今、深刻に憂慮すべき事態と言わざるを得ない。
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元首の政治利用(2)

 権威や権力は、通常、個人の意志と主張の発露によって獲得されるものである。意志なきところに人を動かす力は発生しえない。それが、政治学的な理解であり、恐らく西欧での常識であり、ドイツの大統領制を理解する上での基本公式である。
 
 しかし、天皇制はそうした公式に当てはめて理解することが難しい。すでに「神聖なる『空』」という言葉で説明したとおり、天皇制は、天皇の個人的人格が後退し、「希薄化」されるほど、天皇自身の権威が増すという、一種の逆説の上に成り立つ制度である。希薄化とは、言い換えれば、天皇の生身の人間としての存在感が後退し、日本国民の総意が、ふさわしい望ましいと思う在り方へと、天皇が私を捨て去り、自身を昇華していくプロセスと言える。
 それは「何もしない」ということによって達成できる作業ではない。とりわけ、歴史性というカリスマを持ち得なかった今上陛下は、何が一体象徴としての自身の在り方なのか、どこに「国民の総意」があるのかを、試行錯誤の中で探し求めねばならなかった、戦後憲法下の初の天皇である。陛下は「中立性」「公平性」「弱者へのいたわり」と言った概念に依拠し、「希薄化」を行ったが、結果としてそれは大きな成功を収めた。戦後民主主義に適合的な「神聖なる『空』」の領域を再発見したと言ってよい。
 
以上は、以前書いたことと同じである。
 
 さて、「一ヶ月ルール」は、それ自体、確かに枝葉末節の制度である。
 しかし、そうした枝葉末節の制度の中にも、陛下が即位後積み重ね築き上げてきた領域の根幹に触れる論点が内在している。
 「一ヶ月ルール」の本旨は陛下の健康を守ることにあるのではない。単に陛下の健康状態が問題なら、小沢幹事長の言う通り、その都度判断して柔軟にスケジュールを組めば良いだけの話である。しかし、そうした恣意的な運営では「不公平が生まれかねない」ことを危惧し、あらかじめ一ヶ月というラインを設けることで、予測可能な過密でないスケジュールの構築、透明で公平な要人応接という二つの要請を両立させることがその趣旨であった。
 そこには制度の趣旨として、明確に「公平性」を担保するという意図があり、そういう意図のもとに厳格に運用され、恐らくその下で陛下との会見が叶わなかった要人たちが存在するのである。そしてこの「公平性」という要素は、現在の天皇制を支える重要な価値観の一つとなっているのである。
 
 この「公平性」の価値観は、「重要性」という価値観と、鋭い緊張関係にある。恐らくこのことが、問題の核心である。
 
 中国は、重要である。習近平副主席を厚遇することの意義は、日本の国益にとって決して小さくはない。時の政府が、上述した緊張関係を踏まえた上で、敢えて「一ヶ月ルール」と将来の中国の指導者とを天秤にかけるという試みは、高度な政治判断として、十分にあり得る。天皇制も、つまるところは日本国のために存在する制度である。皇室が日本にとって強力な外交ツールである以上、日本の国益に適う形でその活用を考えることは、国政の責任者として当然である。
 
 それは大きく言えば「天皇の政治利用」である。ただそれ自体は政策判断の問題であり、「政治利用」そのものが直接批判されるべき問題なのではない。有体にいえば、事実上の国家元首である以上、100%政治から自由な立場でいられるわけなどなく、そういう意味で純粋な政治的中立性なるものを天皇制に期待するのは不可能だし、すべきでもない。
 
 しかし「政治利用」には常にリスクが伴う。もちろんその程度にもよるが、「政治利用」は時に天皇に生の人間の臭いを纏わせ、時に天皇を単なる傀儡に貶め、そして時に天皇制の根幹となる価値を歪ませる。これらはいずれも神聖な「空」の領域を侵犯し、天皇の権威をおとしめる。場合によっては天皇制そのものを致命的な形で傷つけかねない。天皇を政治的に利用しようとする政治家は、そのリスクを常に念頭に置き、政治利用により得られる国益と天皇制へのダメージとを天秤にかけ、それを見極める必要がある。
 
 そして政治利用を決断し実行するに当たっては、当然、天皇の政治利用を懸念する世論―今の日本では非常に強い勢力を持っているが―に対し、極めて慎重に、時間をかけて、政策の意図を浸透させ納得させるだけの技量と覚悟と忍耐が求められるのである。
 

元首の政治利用(1)

ドイツの大統領官邸の担当者と一度、元首としての外交の在り方というテーマで話す機会を持ったことがある。

 ドイツには大統領がいる。ただ国民から直接投票で選ばれるわけではなく、政治353e47f7c11e2b12.jpg的権力も(ゼロではないが)ほぼ無に等しい。そうした条件の下で如何に大統領としての権威を得、国家の顔として人々の信頼を得ていくかという課題は、決して容易なことではない。現在の大統領であるホルスト・ケーラーは元官僚であり、財務次官からIMF専務理事となった。大統領選が2004年のことで、この時62歳である。保守陣営側の候補者選定が難航した末担ぎ出された感が強かったケーラーだが、その後着実に国民の人気を得、今年5月に再選を果たし、今ではドイツの国家元首としてすっかり定着している。

 この大統領という職の舵取りは非常に難しいところがあると思う。一方で国民全体、ドイツ全体の代表として中立的な振る舞いを求められるが、他方で適度に存在感を発揮しなければ、国民から忘却される。ドイツの歴代大統領はもちろんこの機微をよくわきまえていて、時折限られた政治的リソースを駆使しながら、自身の(時に政治的な)主張を発信していく。
 テレビで公然と時の政権の政策批判を行ったり、倫理的問題について演説の場を借りて自らの主張を述べたり、憲法上疑義がある法律に対する署名を拒んだりする。共通しているのは、いずれも大統領個々人の(政治的)立場、信念を明らかにすることで、世論の注意を喚起し、権威を築き上げていくという点である。その信念が党派的であるとか非論理的であると受け止められれば、それだけで大統領の権威が失墜するリスクが内包されている。独特の政治的嗅覚とバランス感覚がなければこなせない仕事である。

 その大統領官邸の担当者は、「皇室や王室という血統的な元首のあり方と、ドイツの大統領制のように選出される元首のあり方には、もちろんそれぞれの短所長所がある。」と前置きしたうえで、「ただ、5年ごとの選挙により大統領が就任する我が国の制度は、個々の大統領の関心や信念の相違によって、多様な政治や社会の問題に対する世論の注目をダイナミックに喚起できるという利点がある。」と述べていた。非常に的を得た洞察であると思った。

 つまるところ、ドイツの大統領制は、基本的に大統領個人と言う生身の人間に依拠する制度であると言ってよい。
 その担当者は、そうした人間依存の制度に依拠することのリスクも、同時に認識していたふうであった。

 ただ、日本の皇室が極端なまでに政治的存在感を希薄化し、世論を喚起するという行為から厳しく距離を置いていることの意味については、どうやら理解しかねているようで、言外に「日本の皇室は退屈に見える」という気持ちを抱いているように見受けられた。
 恐らくドイツ人という民族にとって、戦後日本の天皇制ほど理解の難しい制度はないだろうな、と思った。

 以上は、前置きである。

 ここ一週間ほど、例の「特例会見」の問題について話題になることが多く、意見を求められる機会が多かった。どうも感情に任せて、あるいは単純な憲法論を持ち出して問題を過大視したり過少評価したりする、上滑りな論調が多いように感じる。

 全くの偶然だが、帰国後「皇室」や「天皇」という日本固有の元首制度のあり方について考える機会が多い。有名な「空」の概念や今上陛下の果たされた役割については、以前述べたことがある。それを前提として、少しこの機会に自分としての考えをまとめておきたい。


議会政治後進国

 先週末以来、民主党の「強行採決」が巷を賑わせている。この臨時国会に限った話でいえば、民主党側が法案数の割に余裕のある会期を設定しなかったことが最大の原因だろう。ましてや政権交代後初の国会であるのだから、予算委や党首討論で首相と議論する時間を十分確保すべきだとする野党側の主張は筋が通っている。

 ただし、これはあくまで55年体制下での国会運営を前提とした際の話である。我々はこの際、もっと素朴な疑問から始めて良い。なぜ国会に「会期」があるのか。なぜ「会期」前に成立しなかった法案は「廃案」となり、次の国会で一から審議し直す必要があるのか。そもそも「強行採決」とは何か。議案に不満を持っているはずの野党が、なぜ「審議拒否」をして議案の議論を放棄するのか。議論を放棄した者を無視して採決をすることが、なにゆえ「強行」なのか。なぜ一つの案件で日程の合意ができないことが、国会全体の審議の停止につながるのか。

 こうした日本の議会政治特有の現象を説明するのは、日本人相手でも相当に骨が折れる。恐らく議会政治先進国の政治家にこれらを合理的に説明するのはほとんど不可能ではないか。日本の議会政治はそれほど世界標準からみると特殊で捻じれた暗黙知の世界を有している。

 国会法の制定経緯については詳しくないが、少なくともこうした国会運営を定着させてきたのは55年体制である。「万年与党」と「万年野党」の存在が固着化する中で、ムラ社会的な均衡の論理によって育まれてきたのが、議論の中身ではなく手続き面で野党の部分的抵抗を可能にするという慣習であった。そして議案を会期末までに綿密なスケジュールに従って処理することを与党に強制する「会期」制度が、これらの慣習に実質的意味を付与した。数に任せた「強硬」で「横暴」な自民党に対して、少数政党が健気に抵抗する姿を国民に示すことで同情を引く、あるいは議案の内容を「議論しない」ことで時間切れに持ち込むという審議拒否・審議引き延ばしの風景が、この民主主義国の「国権の最高機関」のハイライトであり、与野党対立の頂点をなしていた。同じ引き延ばしならせめて米国ばりの議事妨害(Filibuster)でもやればまだ絵にもなろうが、代わりに野党が採用したのは牛歩戦術だった。

 日本は曲がりなりにも100年を超える議会政治の歴史を持つ。その実態がこれかと思うと、情けなくなる。

 極端な話、議会制民主主義においては定期的に実施される選挙の結果においてすでに民意の大方針は示されている。議会に期待されているのはその民意の実現に当たってのより良い法制度作りと執行者たる行政への厳しい監視監督である。手続き面で姑息な策略を駆使することで与党法案の成立を遅らせあるいは時間切れ廃案に追い込むというのは議会制民主主義の自殺行為と言っても良い。国会議員の本職は議会の場で息が切れるまで議案を討議し、議案の問題点を洗い出し、より良い対案を示し、その違いを世論に訴えることにある。それは選挙区で声を涸らすまで有権者の支持を訴えることと同様もしくはそれ以上に重要な使命であるという真っ当な感覚を、55年体制下の国対政治は麻痺させ続けてきた。従って、そうした議論を可能にする国会の制度改革の声も、決して大きくなることはなかった。

 何より病巣が深いのはマスコミが相も変わらず強行採決と審議拒否こそ「国会の華」であるかのような浮かれた報道を垂れ流していることである。「政権交代をしてもやってることは同じなんですね!」としたり顔で語るテレビキャスターやジャーナリストたちは、国会運営の駆け引きこそが政治であるという、55年体制下の歪んだ常識に未だに安住しているのである。

 今この時点で注目すべきは与野党が交代しただけの国対政治の喜劇ではなく、むしろ小沢氏が政権交代後から唱えている国会改革論の内容であろう。小沢氏の依頼を受けて21世紀臨調が作成したとされるこの改革案の内容は、政権交代を機に怠惰な慣行を積み重ねてきた日本の議会政治に新風を吹き込むという点でもっと注目されてよいはずである。マスコミは「官僚答弁」の是非についてばかり関心を向けているが、枝葉末節の問題に過ぎない。多少国会の病巣の本質をわかっている人間であれば、「300日以上の常会会期の導入」「会期不継続原則の廃止」の方がはるかに大きな地殻変動をもたらすであろうことに容易に気がつくはずである。

 現在の国会の問題はその8割が制度と慣習に起因している。国会法という法律一本をうまく改正することさえできれば、比較的柔軟な思考のできる民主党政権の下であれば、がらりと国会の在り方は様変わりし得る。

 恐らく日本の議会政治は90年代に民主化を達成した国々よりも非生産的で非民主的な面が強い。民主主義も議会政治も、その質は制度を採用した古さと決して比例するものではない。そういう「後進国」としての自覚と危機感は、もっと共有されてしかるべきものである。


もう一つの自由民主党(2)

 我々は自由主義が保守主義と親和的であるというイメージを抱きがちだが、その根拠はそれほど確固たるものではない。

 単純に考えれば、冷戦により「自由主義=保守(右)」「社会主義=革新(左)」という単純明快な政策の類型化が推し進められたという歴史的要因がこのステレオタイプ化の根源にあるように思う。
 それ以外にもう少し論理的な説明があるとすれば、これは主に経済政策の観点になるが、保守主義が市場や私企業、家計に対する国家の介入を忌避するという意味で自由主義と親和性を持っていたという事実は経験的に観察できるだろう。とりわけ2大政党制をとるアングロサクソン系国家にはこの傾向が強いように見えるが、この点はレーガンやサッチャーを思い浮かべれば誰でも容易に理解できるところだと思われる。この二国の事例の日本国内での認知度の高さは他国のそれとは隔絶して大きなものがある。

 以上のような理由から、なんとなく日本の自民党も「自由主義」政党であるとのイメージが抱かれがちだが、いざ冷静な目でその50年の歴史を眺めてみれば、その内実に自由主義的とは言い難い要素が満ち溢れていることは明らかである。とりわけ、冷戦が終了して「保守=自由陣営」という公式がその意味を失うに従い、次第に自民党の「非自由的側面」が浮き彫りになっていったように思われる。ベルリンの壁崩壊後の自民党政権で「自由主義」の名に値するのは、カッコつきで小泉内閣、二重括弧つきで橋本内閣と安倍内閣くらいではないだろうか。

 今となって考えれば、実は自民党のイデオロギーは「西側陣営の一員」「永久与党」という二点に過ぎず、その内部には一般社会ではすでに消え失せたような日本のムラ社会的な掟と論理が閉鎖的な再生産を繰り返していて、個人においても経済においても「自由」を促進していくという思想はかなり希薄であったように思われる。
 小泉改革に対する反発の想像以上の強さ、「抵抗勢力」の巻き返しによりわずか3年で事実上新自由主義勢力が消失した過程は、この政党にイデオロギーとしての「自由主義」がほとんど根付いていなかったことの何よりの証左ではないか。ましてや経済政策以外の分野で自民党が自由主義的であったことは、ひょっとすると一度もないかもしれない。

 「保守=自由主義」の公式の下に自由主義を支持する有権者の票を胡坐をかきながらでも取り込むことができた冷戦時代が過ぎ去り、次第に都市中間層が自民党から足を遠ざけて行ったのは、ある意味当然の成り行きであったように思われる。逆にいえば冷戦の終結と共にすでに意味を失いかけていた「自由」の看板の真意のほどを再検証する作業を怠ってきたのが今の自民党という政党なのである。自民党が立派な「保守」政党であることに変わりはないが、「自由」政党であることの再定義は、冷戦終結後20年経った今でもまともに総括できていない。

 対照的に、ドイツの自由民主党(FDP)は看板に偽りがない。

 ドイツの保守政党であるキリスト教民主/社会同盟(CDU/CSU)が教会や農家などを強力な地盤とし、日本の自民党と同じ泥臭い保守主義のイメージを背負っているのに対し、FDPは主として自営業者や弁護士、都市部の中間層を基盤としている。その党是には明確に「自由の強化と個人の責任」が掲げられており、それは減税や規制緩和など経済的な文脈に留まるものではない。

 例えば治安政策においては市民の基本権を制限しかねない盗聴法案やオンライン上捜査権限強化のための法案に反対し、また刑法犯の厳罰化にも反対している。また倫理面でもES細胞研究支援に積極的であったり、同性愛カップルを法制面で結婚と同等に扱うことを主張したりと、なるほどFDPの主張は「自由の強化」という点において驚くほど一貫したものがある。
 これは自由主義という思想自体には現在においてもまだまだ革新的な要素が色濃く残されており、経済政策のみを取り上げて自由主義と保守主義とをひとくくりにしてしまうことの短絡さを示すものである。少なくとも日本の戦後史においてはこのような意味での「自由主義」政党が現れたことはないと思う。

 a4da57a3.jpegちなみにこのFDPの現党首にして新内閣の副総理・外務大臣であるGuido Westerwelle氏は自身が同性愛者であることを認めており、そのパートナーであるMichael Mronz氏(写真左)もしばしば公の場に共に現れるため、一般にもよく知られている。日本で自民党の政治家が平然と同様に振る舞う姿はまず想像できないだろう。保守主義と自由主義との断絶をこれほど鮮やかに示している例はなかなかないのではないか。

 ちなみにドイツメディアにはそのことを取り立てて問題視するような空気はない。むしろ問題視する方が問題であるという空気が満ち満ちている。それが現代ドイツという国である。

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自己紹介:
三度の飯より政治談議が好きな30間近の不平分子。播州の片田舎出身。司馬遼太郎の熱狂的愛読者で歴史好き。ドイツ滞在経験があり、大のビール党。
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