我々は自由主義が保守主義と親和的であるというイメージを抱きがちだが、その根拠はそれほど確固たるものではない。
単純に考えれば、冷戦により「自由主義=保守(右)」「社会主義=革新(左)」という単純明快な政策の類型化が推し進められたという歴史的要因がこのステレオタイプ化の根源にあるように思う。
それ以外にもう少し論理的な説明があるとすれば、これは主に経済政策の観点になるが、保守主義が市場や私企業、家計に対する国家の介入を忌避するという意味で自由主義と親和性を持っていたという事実は経験的に観察できるだろう。とりわけ2大政党制をとるアングロサクソン系国家にはこの傾向が強いように見えるが、この点はレーガンやサッチャーを思い浮かべれば誰でも容易に理解できるところだと思われる。この二国の事例の日本国内での認知度の高さは他国のそれとは隔絶して大きなものがある。
以上のような理由から、なんとなく日本の自民党も「自由主義」政党であるとのイメージが抱かれがちだが、いざ冷静な目でその50年の歴史を眺めてみれば、その内実に自由主義的とは言い難い要素が満ち溢れていることは明らかである。とりわけ、冷戦が終了して「保守=自由陣営」という公式がその意味を失うに従い、次第に自民党の「非自由的側面」が浮き彫りになっていったように思われる。ベルリンの壁崩壊後の自民党政権で「自由主義」の名に値するのは、カッコつきで小泉内閣、二重括弧つきで橋本内閣と安倍内閣くらいではないだろうか。
今となって考えれば、実は自民党のイデオロギーは「西側陣営の一員」「永久与党」という二点に過ぎず、その内部には一般社会ではすでに消え失せたような日本のムラ社会的な掟と論理が閉鎖的な再生産を繰り返していて、個人においても経済においても「自由」を促進していくという思想はかなり希薄であったように思われる。
小泉改革に対する反発の想像以上の強さ、「抵抗勢力」の巻き返しによりわずか3年で事実上新自由主義勢力が消失した過程は、この政党にイデオロギーとしての「自由主義」がほとんど根付いていなかったことの何よりの証左ではないか。ましてや経済政策以外の分野で自民党が自由主義的であったことは、ひょっとすると一度もないかもしれない。
「保守=自由主義」の公式の下に自由主義を支持する有権者の票を胡坐をかきながらでも取り込むことができた冷戦時代が過ぎ去り、次第に都市中間層が自民党から足を遠ざけて行ったのは、ある意味当然の成り行きであったように思われる。逆にいえば冷戦の終結と共にすでに意味を失いかけていた「自由」の看板の真意のほどを再検証する作業を怠ってきたのが今の自民党という政党なのである。自民党が立派な「保守」政党であることに変わりはないが、「自由」政党であることの再定義は、冷戦終結後20年経った今でもまともに総括できていない。
対照的に、ドイツの自由民主党(FDP)は看板に偽りがない。
ドイツの保守政党であるキリスト教民主/社会同盟(CDU/CSU)が教会や農家などを強力な地盤とし、日本の自民党と同じ泥臭い保守主義のイメージを背負っているのに対し、FDPは主として自営業者や弁護士、都市部の中間層を基盤としている。その党是には明確に「自由の強化と個人の責任」が掲げられており、それは減税や規制緩和など経済的な文脈に留まるものではない。
例えば治安政策においては市民の基本権を制限しかねない盗聴法案やオンライン上捜査権限強化のための法案に反対し、また刑法犯の厳罰化にも反対している。また倫理面でもES細胞研究支援に積極的であったり、同性愛カップルを法制面で結婚と同等に扱うことを主張したりと、なるほどFDPの主張は「自由の強化」という点において驚くほど一貫したものがある。
これは自由主義という思想自体には現在においてもまだまだ革新的な要素が色濃く残されており、経済政策のみを取り上げて自由主義と保守主義とをひとくくりにしてしまうことの短絡さを示すものである。少なくとも日本の戦後史においてはこのような意味での「自由主義」政党が現れたことはないと思う。
ちなみにこのFDPの現党首にして新内閣の副総理・外務大臣であるGuido Westerwelle氏は自身が同性愛者であることを認めており、そのパートナーであるMichael Mronz氏(写真左)もしばしば公の場に共に現れるため、一般にもよく知られている。日本で自民党の政治家が平然と同様に振る舞う姿はまず想像できないだろう。保守主義と自由主義との断絶をこれほど鮮やかに示している例はなかなかないのではないか。
ちなみにドイツメディアにはそのことを取り立てて問題視するような空気はない。むしろ問題視する方が問題であるという空気が満ち満ちている。それが現代ドイツという国である。PR
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