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望雲録

のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

カテゴリー「ドイツの町」の記事一覧

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マインハッタンの素顔(1)

Wappen-frankfurt.png フランクフルトは日本でも比較的名前の知られた都市であろう。ドイツ西部ヘッセン州に位置するドイツ有数の大都市で、ドイツ連邦銀行、ドイツ証券取引所等が位置するドイツ金融の中心であり、何よりユーロの総元締めである欧州中央銀行のお膝元として、世界金融の一大中心地として知られる。フラDSCF7071.JPGンクフルト国際空港はヨーロッパ最大規模のハブ空港で、日本からヨーロッパ入りする際に経由することが多い。「マインハッタン」とは同市の異名で、高層ビルの立ち並ぶ様子をニューヨークのマンハッタンになぞらえ、同市を貫流するマイン川の名前を取ってもじったものである。ちなみに正式名称のフランクフルト・アム・マインとは「マイン川河畔のフランクフルト」と言った程度の意味である。(左はフランクフルト市の紋章と欧州中央銀行)

 近代的な商業金融都市としてのイメージが非常に強い街だが、人口は66万人程度(それでもドイツ第五位である)で、駅や空港の広大さに比べると街の規模はやや不釣り合いに思えるほどコンパクトである。マイン側対岸から眺めるスカイラインは、高層建築自体が少ないドイツにあってはそれなりの偉容を示しているが、本家のマンハッタンの圧倒的な存在感と比べるとやはり見劣りしてしまう。高層ビルのDSCF7076.JPG麓もあまり洒落た雰囲気ではない。日本の地方都市のように月並みな街区が続く中、ところどころ思いついたかのように高層ビルが天に伸びている。街行く人々の雰囲気も多種多様で、全身隙なくビジネススーツで固めた金髪碧眼のビジネスマンもいれば、ラフなTシャツとジーパン姿で大股で通りを闊歩するトルコ人や黒人の姿も目につく。現代社会学的な意味で言う「都市」の雰囲気である。

 ドイツにはこういう意味で「都市的」な街はそれほど多くないと思う。中世以来の面影を色濃く刻んだ瀟洒な街並がしっかり保存されている。フランクフルトに着いたのは夜だったが、久々に煌々と光を放つ摩天楼を目にした時、身体の底から言いしれようのない興奮が込み上がってくるのを感じた。その時自分が高層建築やネオンサインといった純人工的なものに渇きを覚えていたことに初めて気が付いたが、人間にはそうした「都市的」なものに対する本能がどこかにあるのかもしれない。

 それゆえ、この街がローマ帝国以来の古い歴史を引いていることはなにやら逆説的で、面白みがある。

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ポツダム実景(2)

 ポツダムの歴史は意外と古い。文献に具体的な地名が登場するのは10世紀末の神聖ローマ帝国の時代で、町としての歴史はベルリンよりも長いことになる。中世以降小都市として発達を遂げたのち、15世紀以降代々ホーエンツォレルン家の居住地として受け継がれていく。

 言うまでもなく、この地を世界的に有名にしたのは、フリードリヒ2世(大王)の治世に建造されたサン・スーシ宮殿である。フランス語で「無憂宮」を意味するこの宮殿は、フリードリヒ2世が王都ベルリンを離れ静かに自らの時間を過ごすために建設したとされる。宮殿内には王に許されたごく近しい人間のみ立ち入ることができたという。
 
DSCF5672.JPG 世界史を勉強した人には、階段式のぶどう棚の上に立つ黄色い宮殿は「ロココ様式の代表的建築」という肩書でお馴染みのはずだが、自分も教科書に載っていた写真とともに高校時代のことなどが思い出され、妙に懐かしい気分にさせられた。
 黄色や緑をふんだんに使用する建築は日本人の初見には鮮烈にすぎるが、目が慣れてくると不思議と嫌味さが消え、この国の人々の夏の緑と日差しへの憧れが染み透るように伝わってくる。
 
 サン・スーシ宮殿の敷地内には他にもいくつかの巨大な宮殿が点在している。このうち新宮殿はフリードリヒ大王の命によるもので、王の客人が数多く滞在した。DSCF5685.JPG
新宮殿の裏手にはポツダム大学がある。この大学はドイツ再統一後に設立された。歴史は浅いが、その立地は最高である。ここの学生は世界に名だたる大宮殿の広大な敷地を庭同然に使えるわけで、学問をする身としてはこれにまさる贅沢はなかなかないだろう。ポツダムは「学者の街」としても高名で、数多くの研究機関が集中している。どう算出したのか知らないが、人口に占める研究者の割合がドイツでもっとも高いと言う。
 
 この日は天候が不安定で、庭園を散策中にわか雨に見舞われた。新宮殿の傍で雨に煙る庭園を眺めながら、この国の世界史的遺産の膨大さを思ったりした。裏の学生たちは毎日この景観を前に物思いに沈む贅沢を享受していることだろう。歴史と自然に培われ洗練された町は、一人ものを考えるには最適の空間である。

ポツダム実景(1)

 日本人なら誰しもが小学生の社会科の授業でポツダムの地名を耳にしたと思う。もちろん先の大戦の日本の陰鬱な描写、その惨憺たる結末と合わせて、である。私の場合、当時よく読んだ歴史漫画でこの言葉が出てくるカットが原爆のキノコ雲の描写であったため、「ポツダム」の音は「無条件降伏」「黙殺」という重々しい語句とともに、終末論的な響きを持って強く記憶に刻まれている。
 Potsdam_Wappen.png
 ポツダムは人口およそ15万人、ベルリンの南西に隣り合って位置する、ブランデンブルク州の州都である(右は市の旗。ちなみにブランデンブルク州はベルリンを取り囲む形で位置する行政州である)。現在ではベルリンの中央部からRE(Regional Express, 地域快速)でわずか20分弱ほどで訪れることができる。

Potsdam_view_from_above.jpg 現実のポツダムは、息を呑むほどに美しい。欝蒼とした森林の中に広大な庭園と澄んだ湖沼が点在する、緑豊かで静かな町である(左は航空写真。)。都心部の目抜き通りのBrandenburgerstraße.も小奇麗で品よく活気があり、小都市としてかなりの完成度を誇っていると言ってよい。ただベルリンの郊外ということDSCF5708.JPGは当然ながら冷戦期は東ドイツに属していたわけで、今でも街のあちこちが再開発されている。(右は再整備中のニコライ教会の巨大な大聖堂。ちなみに工事現場の天幕にでかでかと商業広告が掲載されるのはドイツではお馴染みの光景。
 

Potsdam_conference_1945-6.jpg ポツダム会談が行われたのは街のやや北の外れに位置するツェツィーリエンホーフ宮殿(Schloß Cecilienhof)においてである。米のトルーマン、英のチャーチル(のちアトリー)、ソ連のスターリンのいわゆる「三巨頭」が集結し、日本への無条件降伏勧告も含め、戦後の欧州、そして世界秩序について会談した。宮殿は新庭園(Neuer Garten)と称する広大な庭園に位置する。庭園は湖に接しており風光明媚なことこの上ない。ベルリン郊外という地理的条件に加え、都心から離れた孤立した立地が要人警護の観点からも至便であったのだろう。
 
DSCF5695.JPG この建物はテューダー様式という英国の建築様式にならったもので、その外観は宮殿というより地方の大地主の屋敷と言った方がイメージにふさわしい。過剰な装飾がなく自然に溶け込んだ素朴なつくりで好感が持てる。新庭園近郊の民家は多く同じ様式にならって建てられており、この界隈はポツダムの中でもとりわけ豊かな情緒に溢れている。
 DSCF5702.JPG
 今はいわゆる「古城ホテル」として利用されているこの宮殿の周辺では、夏の休暇を楽しむ観光客たちが和やかに午後のティー・タイムを楽しんでいた。すべては時の移り変わりということであろうが、この屋敷には新世界秩序創造の場としての名声よりも、こちらの光景の方が似つかわしく思えた。

ウンテル、デン、リンデンの光芒(2)

第二次大戦による破壊の後、この地域は東側陣営の占領下に置かれた。歴史的建造物が再建される傍ら、ソ連大使館など東側陣営の権威を象徴する建物が建設された。そしてベルリンの壁はブランデンブルク門を境界としてこの通りの西端を塞ぐ形となった。
 壁の崩壊後、この通りは西側資本による再開発が急速に進展し、今や再び統一ベルリンのメイン・ストリートとしての地位を取り戻しつつある。逆に、西ベルリンの中心的目抜き通りであったクーダムKurfuerstendammは、本家に若者をとられた形となり、かつての繁栄を失いつつあるという。

 夕暮れ時の街路は人通りも盛んで活気にあふれていた。周辺ではまだ工事現場が散見され、引き続き開発が進められている。ベルリンは今も変化し躍動し続けている。
工事現場の一画に以下の文章が打ちつけてあった。

DSCF5638.jpg「ベルリン人には二つのタイプがある。片方はベルリンに生まれてそれを自明のことだと思っている人。 もう片方は、私はたまたまこちらの側だが、自分でこの街を選んだ人。そして私も含むこちら側の人たちは、自分を幸せだと思っている。私たちには、生れながらのベルリン人がなんで不機嫌だったり好戦的だったりするのかよく分からない。世界一の街に住んでることに勝る幸福があるとでも言うのだろうか。」

 Harald Martensteinは高名なジャーナリストらしい。重機の作業音の中でベルリンという街の数奇な運命を鑑みる時、この何気ない文章ですら、何か不思議な詩情を帯びてくるように思われた。苦難を背負った経験のあるものだけが放つ香気とでもいうべきものだろうか。

 私はベルリンの中で、この界隈が一番気に入ったようである。

ウンテル、デン、リンデンの光芒(1)

DSCF5594.jpg「余は模糊たる功名の念と、檢束に慣れたる勉強力とを持ちて、忽ちこの歐羅巴の新大都の中央に立てり。何等の光彩ぞ、我目を射むとするは。何等の色澤ぞ、我心を迷はさむとするは。菩提樹下と譯するときは、幽靜なる境なるべく思はるれど、この大道髮の如きウンテル、デン、リンデンに來て兩邊なる石だゝみの人道を行く隊々の士女を見よ。胸張り肩聳えたる士官の、まだ維廉一世の街に臨めるに倚り玉ふ頃なりければ、樣々の色に飾り成したる禮裝をなしたる、妍き少女の巴里まねびの粧したる、彼も此も目を驚かさぬはなきに、車道の土瀝青の上を音もせで走るいろ/\の馬車、雲に聳ゆる樓閣の少しとぎれたる處には、晴れたる空に夕立の音を聞かせて漲り落つる噴井の水、遠く望めばブランデンブルク門を隔てゝ緑樹枝をさし交はしたる中より、半天に浮び出でたる凱旋塔の神女の像、この許多の景物目睫の間に聚まりたれば、始めてこゝに來しものゝ應接に遑なきも宜なり。されど我胸には縱ひいかなる境に遊びても、あだなる美觀に心をば動さじの誓ありて、つねに我を襲ふ外物を遮り留めたりき。」
 
 森鴎外『舞姫』の有名な一節である。主人公である明治国家の青年官僚が「西欧的近代」に一人対峙した時の衝撃と感嘆が、文章全体にはちきれんばかりに凝縮されている。この作品はその圧倒的な知名度を通じて、我々のベルリンという都市を見る目にも少なからず影響を与えているように思う。
 当時は「・」による表記法がなかったのか、鴎外の「舞姫」の中ではこの通りの名は読点によって結ばれている。それがこの言葉にある種異様な気迫を与えている。現在では「ウンター・デン・リンデン」と表記するのが一般的であるが、言葉がの800px-Unter_den_Linden_im_Herbst.jpgっぺりと平らになってしまって、鴎外のそれにある気迫は感じられない。原語はUnter den Lindenであり、上の引用文にもあるとおり、意味は「菩提樹の下」となる。大通りの一部には今も菩提樹並木が残っている。ついでに言えば、この界隈も含めベルリンは非常に緑豊かな街である。

 この通りの歴史は16世紀に遡る。当時のブランデンブルク選帝侯が居城と狩猟場であったTier Gartenを結びつけるために敷設されたのが始まりであるという。時代が下るにつれ国家建築が数多く建設され、ベルリンの発展史はこの通りを軸として展開していく。

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読書、旅行
自己紹介:
三度の飯より政治談議が好きな30間近の不平分子。播州の片田舎出身。司馬遼太郎の熱狂的愛読者で歴史好き。ドイツ滞在経験があり、大のビール党。
[12/16 abuja]
[02/16 einjapaner]
[02/09 支那通見習]
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