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望雲録

のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

カテゴリー「ドイツの町」の記事一覧

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ニュルンベルク~ゲルマンの都(3)

 19世紀から20世紀初頭にかけてのニュルンベルクは産業革命の寵児となった。この時代ニュルンベルクは急速な工業化を果たし、大戦前の人口は33万を数え、19世紀初頭に比し実に15倍に膨れ上がった。ちなみにドイツで初めて鉄道が開通したのは1835年、この街においてである。

 経済的復活を背景にニュルンベルクではかつての自由な都市の気風を取り戻し、1848年革命の際もフランクフルト国民議会への積極的な支持を表明した。中にはこの街の歴史的な意義を説き、統一後のニュルンベルクをドイツの帝都とするべ450px-Nuernberg_gnm_haupteingang_v_sw.jpgきだと主張する者もいた。ちなみにこの貴族(フォン・アウフゼッツ250px-Essenwein-1884-germ-nat-museum-ausbau-sw.jpg卿)は、ニュルンベルクに「ゲルマン博物館」を設立したことで知られている。変転を続けながら現在まで存続しているドイツ最大規模の国立文化博物館である(右は設立時、現在それぞれの写真)。


 ナチスが初めてニュルンベルク史に登場するのは1927年、この街で草創期のナチス党大会が開催されたころである。ヒトラーがミュンヘン一揆後の拘禁から解放されたのが1925年の冬のことであるから、ヒトラーは権力掌握のかなり以前からこの街の地理的、歴史的な重要性に注目していたといえる。急速な経済発展によって繁栄を享受したニュルンベルクは、その重要性ゆえに、ナチス発祥の地ミュンヘンから権力の中枢ベルリンに至る「橋渡し」の役割を担わされることになった。

plakat_adler.jpg 実際、ニュルンベルク近郊はナチスの強固な政治基盤としての役割を果たしていたし、ニュルンベルクは何より神聖ローマ帝国の中枢としての重厚な伝統を背負っていた。この地はドイツ帝国(Reich)の系譜を継ぐ「第三帝国」の成立を国内に喧伝するにふさわしい歴史的背景を有していたわけである(左はニュルンベルク市を取り上げたナチスの宣伝ポスター。)。

 1933年のヒトラー首相就任直後の8月、ニュルンベルク南東部の180px-Reichsparteitag_1935.jpgDutzend池周辺で「勝利の帝国党大会(Reichsparteitag des Sieges)」と銘打ったナチス初の本格的な党大会が開催された。もとは保養地として発達したこの地域には、以後、党威発揚のための舞台装置として大規模な建築物が次々と建立され、第二次大戦の開始される1939年まで、毎年定期的に党大会が開催された。最盛期にはドイツ全土から百万人を超える党員が集結し、ナチスとヒトラーの栄光を称えた。

 ここにナチスとニュルンベルクは歴史的に固く結び付けられた。Die Stadt der Reichsparteitag(帝国党大会の都市)の誕生であった。
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ニュルンベルク~ゲルマンの都(2)

DSCF7309.JPG 神聖ローマ皇帝の拠点であるニュルンベルク城には「城伯」と称する城の管理者が皇帝から任命され、同時に市内の行政にも当たっていた。のちのプロイセンを立てるホーエンツォレルン家は、一時この城伯の地位を世襲していた。
 
 ただ同家は15世紀半ばにこの城を城伯の地位もろとも手放してしまう。相手はなんと「ニュルンベルク市会議所(Rat der Stadt DSCF7300.JPGNürnberg)」であり、事実上の売却であった。中世後期には欧州内陸での交易活動が活発化し、ドイツ領域内で数多くの都市国家が成立し勢威を振るうこととなる。由緒正しい帝国の城が町人の手に売り飛ばされるという光景はそうした時代を象徴している(右はニュルンベルク市庁舎)。

474px-Self-26.jpg 以後この街の行政は経済力のある市の商人階級の代表者による合議制の形をとることになる。都市国家としての基盤を固めたニュルンベルクは地域抗争を勝ち抜き、一方の地域勢力に成長し、全盛期を迎える。ちなみにドイツ人としては珍しく画家として名前の知れているデューラー(Albrecht Dürer、左)はちょうどこの時期のニュルンベルクで活動していた。
 

 この街の繁栄の終りの始まりは三十年戦争であった。ニュルンベルク市自体はこの戦争による被害を免れたものの、周辺地域が荒廃して次第に経済的な孤立性を強め、かつての経済的繁栄は次第に陰りを見せ始めた。何より1648年のウェストファリア条約で領邦君主の「主権」が確認され、神聖ローマ帝国の崩壊が事実上決定的なものとなると、帝国都市としての権威も色褪せてしまった。主権領域国家の時代の足音が聞こえてくるころには、ニュルンベルク市は巨大な債務を抱えた前近代の遺物のような一地方都市になり下がってしまった。一時期プロイセンへの併合を懇請したが、あまりの債務の大きさに逆に拒否されたという、屈辱的な逸話まで残っている。
 
 結局この街もほかの多くのドイツ都市と同様、ナポレオンの侵攻によって、その長い中世に幕を下ろすことになる。1806年、神聖ローマ帝国は滅亡した。帝国都市の称号を失ったニュルンベルクは同時に成立したライン同盟の主要国、バイエルン王国に併合され、近代への扉を開かれることになる。

ニュルンベルク~ゲルマンの都(1)

 前置きが長くなった。

 いずれにしても、このゲルマンという言葉はドイツという国の深い闇に根を降ろしていて、歴史のしじまから黒い妖気を吸い上げているような不気味なイメージがある。Karte_Deutschland.png
 ニュルンベルクは、そうした「ゲルマン」の負のイメージと、不幸にももっとも強く結び付けられてしまった街である。現在のドイツの中心よりやや南、バイエルン州の北端に位置し、50万の人口を擁する。大都市としての快適さと歴史都市としての重厚さがほどよく調和した、住み心地の良さそうな街である。

 ニュルンベルクの歴史は何より神聖ローマ帝国の歴史と深く結び付いている。この街の旧市街の丘上に聳えるニュルンベルク城は、神聖ローマ帝国のまさに中心部に位置するという地理的条件もあいまって、帝権の伸長と共にその重要性を増していった。

 中世起源の城らしく武骨な雰囲気を残すこの城は、やがてドイツ皇DSCF7303.JPG帝たちの代表的な拠点として発展した。その重要性ゆえ、城下町であるニュルンベルクは1219年、帝国領内で初めて皇帝直轄地として包括的な諸権限を認められることになる。これが後にドイツ全土に適用される「帝国自由都市」のさきがけとなるわけだが、
こうした特権的地位を背景に、14世紀から16世紀にかけて、ニュルンベルクは急速な発展を遂げる。

 302c74a1jpegこの街の重要性を示す一例としてReichskleinodien(左)の保管地としての位置づけがあげられる。神聖ローマ皇帝にも日本の三種の神器と同じく、皇位継承者が受け継ぐ装身具が存在し、戴冠時にはこれらの衣装を身にまとうのが慣例とされていた。ニュルンベルクは15世紀以降この装身具が鎮座する場所として指定され、19世紀にナポレオンの侵攻に際してウィーンへ移転させられるまでその地位を保ち続けた。

 現在の街区はこの街の最盛期であった中世の街並みを基調に戦後再建されたものである。駅を降りて旧市街を見やると、まず石積みの古風な城壁を目の当たりにさせられる。それを越えた内部に伸びる大通りは近代的なショッピング街で、人通りの多い賑やかな通りが続く。ただふっと脇道にそれると、中世の町に迷い込んだかのような瀟洒な街区に出くわしたりする。

 中世の面影を引くドイツの町は、積木細工のようにかわいらしい街DSCF7333.JPG並みを残す町が多い。ただその表情は気まぐれで、天気ひとつで打って変った不気味な雰囲気を醸し出したりもする。どんよりと曇った空の下、鉛色の川にかかる古い石橋、それを縁取る木組みの家屋、葉が落ち切ったにも関わらず妙な存在感を示す黒い木々、人気のない雨のニュルンベルクには、「ゲルマン」という言葉の持つ響きがよく似合う。

マインハッタンの素顔(3)

745px-Frankfurt_Am_Main-Altstadt-Zerstoerung-Luftbild_1944.jpg かつてフランクフルトは中世以来の長い伝統を誇る街として、ドイツでも指折りの美しい街並みを残していたという。しかしそれらは他のドイツの都市と同様に、第二次大戦の惨禍で徹底的に破壊されてしまう。
 
 こうした街の多くでは旧市街をそのまま復興させる努力が行われた。戦禍にも関わらず現在のドイツで古い雰囲気を残した街が多いのはこうした努力の賜物である。だがフランクフルトでは戦後の復興を急いだため、かつての景観は永遠に失われることになった。先に「日本の地方都市のような景観」と書いたが、戦後復興を焦る中で焼け跡から純近代的な「都市」が発生したという構図は東京をはじめとする日本の大都市とよく似ている。
 
 そんな中旧市街の中心部である市庁舎前はかつての街並みが再55bda73e.jpeg現されているのだが、何やらこの一画だけ奇妙に孤立していて、再現されたことの自己主張が強すぎるように思われた。こうした街並みの復興が自然な雰囲気を有するためには、やはり空間としてより大きな規模での広がりが必要になるということであろう。
 
 1949年、この街はドイツ分裂後に西ドイツの首都の最有力候補として名前が挙がった。すでに街では議事堂の建設まで行われていたが、周知のとおりこの座はボンに奪われる。理由は当時の首相アデナウアーの強い意向が働いたためとされる。フランクフルトは社会民主党(SPD)が優位にある都市であり、加えて首相自身がボン近郊の出身だったからと言われている。
 
 中世までの安定感に比べると、栄転の激しい近代と言ってよい。現在のフランクフルトがドイツでも有数の知名度と重要性を持った街であることは変わりない。ただもはやその名に重厚な歴史を誇る帝国自由都市としての響きは薄く、それを肌で感じることのできる寄す処の少ないことは、やはり残念な気がする。

マインハッタンの素顔(2)

Rhein-Karte.pngフランクフルトはライン川のすぐ東方に位置する。ローマ帝国の時代、ライン川は帝国領とゲルマン民族の支配地域を分かつ重要な境界線であった。フランクフルトから電車で30分ほどのライン西岸の古都マインツ(Mainz)はかつてのローマ軍駐屯地であり、この地域はいわば文明の外縁に位置していたわけである。ライン川流域にはケルンやコブレンツなど他にもローマ帝国に起源を持つ都市が多いが、それはこうした理由による。

 フランクフルト(Frankfurt)の地名の由来はFrank-furt、すなわち「フランク人の渡河」であるとされる。フランク人はのちにフランスを形成するゲルマン民族の一派であり、彼らが浅瀬の多いこの地域をマイン川を越えるための拠点として使用し始めたのが街の始まりであるという。

 中世に入るとフランクフルトは神聖ローマ皇帝の選出が行われる街としてその地Nationalversammlung.jpg位を確立する。この伝統は12世紀から始まって実に1806年の神聖ローマ帝国滅亡まで続く。1848年の3月革命に際しては全ドイツから選出された議員がこの地で自由主義的、民主主義的なドイツ統一のあり方を議論したいわゆる「フランクフルト国民議会」(右)が開催される。一貫してドイツ政治の中心にあり、かつ19世紀半ばまで帝国自由都市として高度な自治を有する商業都市であった。

 普墺戦争に際しオーストリア側に立ったことで、1866年プロイセン軍により占領され、フランクフルトは政治的自由と独立を失った。だがプロイセンへの併合は同時に経済的飛躍の機会となり、以後急速な経済発展を遂げることになる。

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HN:
Ein Japaner
性別:
男性
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趣味:
読書、旅行
自己紹介:
三度の飯より政治談議が好きな30間近の不平分子。播州の片田舎出身。司馬遼太郎の熱狂的愛読者で歴史好き。ドイツ滞在経験があり、大のビール党。
[12/16 abuja]
[02/16 einjapaner]
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