「余は模糊たる功名の念と、檢束に慣れたる勉強力とを持ちて、忽ちこの歐羅巴の新大都の中央に立てり。何等の光彩ぞ、我目を射むとするは。何等の色澤ぞ、我心を迷はさむとするは。菩提樹下と譯するときは、幽靜なる境なるべく思はるれど、この大道髮の如きウンテル、デン、リンデンに來て兩邊なる石だゝみの人道を行く隊々の士女を見よ。胸張り肩聳えたる士官の、まだ維廉一世の街に臨めるに倚り玉ふ頃なりければ、樣々の色に飾り成したる禮裝をなしたる、妍き少女の巴里まねびの粧したる、彼も此も目を驚かさぬはなきに、車道の土瀝青の上を音もせで走るいろ/\の馬車、雲に聳ゆる樓閣の少しとぎれたる處には、晴れたる空に夕立の音を聞かせて漲り落つる噴井の水、遠く望めばブランデンブルク門を隔てゝ緑樹枝をさし交はしたる中より、半天に浮び出でたる凱旋塔の神女の像、この許多の景物目睫の間に聚まりたれば、始めてこゝに來しものゝ應接に遑なきも宜なり。されど我胸には縱ひいかなる境に遊びても、あだなる美觀に心をば動さじの誓ありて、つねに我を襲ふ外物を遮り留めたりき。」
森鴎外『舞姫』の有名な一節である。主人公である明治国家の青年官僚が「西欧的近代」に一人対峙した時の衝撃と感嘆が、文章全体にはちきれんばかりに凝縮されている。この作品はその圧倒的な知名度を通じて、我々のベルリンという都市を見る目にも少なからず影響を与えているように思う。
当時は「・」による表記法がなかったのか、鴎外の「舞姫」の中ではこの通りの名は読点によって結ばれている。それがこの言葉にある種異様な気迫を与えている。現在では「ウンター・デン・リンデン」と表記するのが一般的であるが、言葉がのっぺりと平らになってしまって、鴎外のそれにある気迫は感じられない。原語はUnter den Lindenであり、上の引用文にもあるとおり、意味は「菩提樹の下」となる。大通りの一部には今も菩提樹並木が残っている。ついでに言えば、この界隈も含めベルリンは非常に緑豊かな街である。
この通りの歴史は16世紀に遡る。当時のブランデンブルク選帝侯が居城と狩猟場であったTier Gartenを結びつけるために敷設されたのが始まりであるという。時代が下るにつれ国家建築が数多く建設され、ベルリンの発展史はこの通りを軸として展開していく。 PR
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