神聖ローマ皇帝の拠点であるニュルンベルク城には「城伯」と称する城の管理者が皇帝から任命され、同時に市内の行政にも当たっていた。のちのプロイセンを立てるホーエンツォレルン家は、一時この城伯の地位を世襲していた。
ただ同家は15世紀半ばにこの城を城伯の地位もろとも手放してしまう。相手はなんと「ニュルンベルク市会議所(Rat der Stadt
Nürnberg)」であり、事実上の売却であった。中世後期には欧州内陸での交易活動が活発化し、ドイツ領域内で数多くの都市国家が成立し勢威を振るうこととなる。由緒正しい帝国の城が町人の手に売り飛ばされるという光景はそうした時代を象徴している(右はニュルンベルク市庁舎)。
以後この街の行政は経済力のある市の商人階級の代表者による合議制の形をとることになる。都市国家としての基盤を固めたニュルンベルクは地域抗争を勝ち抜き、一方の地域勢力に成長し、全盛期を迎える。ちなみにドイツ人としては珍しく画家として名前の知れているデューラー(Albrecht Dürer、左)はちょうどこの時期のニュルンベルクで活動していた。
この街の繁栄の終りの始まりは三十年戦争であった。ニュルンベルク市自体はこの戦争による被害を免れたものの、周辺地域が荒廃して次第に経済的な孤立性を強め、かつての経済的繁栄は次第に陰りを見せ始めた。何より1648年のウェストファリア条約で領邦君主の「主権」が確認され、神聖ローマ帝国の崩壊が事実上決定的なものとなると、帝国都市としての権威も色褪せてしまった。主権領域国家の時代の足音が聞こえてくるころには、ニュルンベルク市は巨大な債務を抱えた前近代の遺物のような一地方都市になり下がってしまった。一時期プロイセンへの併合を懇請したが、あまりの債務の大きさに逆に拒否されたという、屈辱的な逸話まで残っている。
結局この街もほかの多くのドイツ都市と同様、ナポレオンの侵攻によって、その長い中世に幕を下ろすことになる。1806年、神聖ローマ帝国は滅亡した。帝国都市の称号を失ったニュルンベルクは同時に成立したライン同盟の主要国、バイエルン王国に併合され、近代への扉を開かれることになる。
PR
COMMENT