フランクフルトはライン川のすぐ東方に位置する。ローマ帝国の時代、ライン川は帝国領とゲルマン民族の支配地域を分かつ重要な境界線であった。フランクフルトから電車で30分ほどのライン西岸の古都マインツ(Mainz)はかつてのローマ軍駐屯地であり、この地域はいわば文明の外縁に位置していたわけである。ライン川流域にはケルンやコブレンツなど他にもローマ帝国に起源を持つ都市が多いが、それはこうした理由による。
フランクフルト(Frankfurt)の地名の由来はFrank-furt、すなわち「フランク人の渡河」であるとされる。フランク人はのちにフランスを形成するゲルマン民族の一派であり、彼らが浅瀬の多いこの地域をマイン川を越えるための拠点として使用し始めたのが街の始まりであるという。
中世に入るとフランクフルトは神聖ローマ皇帝の選出が行われる街としてその地位を確立する。この伝統は12世紀から始まって実に1806年の神聖ローマ帝国滅亡まで続く。1848年の3月革命に際しては全ドイツから選出された議員がこの地で自由主義的、民主主義的なドイツ統一のあり方を議論したいわゆる「フランクフルト国民議会」(右)が開催される。一貫してドイツ政治の中心にあり、かつ19世紀半ばまで帝国自由都市として高度な自治を有する商業都市であった。
普墺戦争に際しオーストリア側に立ったことで、1866年プロイセン軍により占領され、フランクフルトは政治的自由と独立を失った。だがプロイセンへの併合は同時に経済的飛躍の機会となり、以後急速な経済発展を遂げることになる。
PR
COMMENT