のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
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中心部から地下鉄に乗って南に二駅ほど行くとBundesviertel(連邦区)という一画に入る。ボンが暫定首都と決定されたあと、この地域が議会や官庁街として整備され、西ドイツ政治の心臓部となった。
ボンが首都となった事実は、内外に驚きをもって迎えられたとともに、一部にはそれを嘲笑する向きもあった。あるアメリカの作家は「ボンはシカゴの中央墓地の半分の大きさしかない。だがその二倍分死んでるも同然だ」と嘲弄した。ドイツでもBundeshauptstadt(連邦首都)をもじったBundesdorf(連邦村落・連邦田舎)という意地の悪い造語が作られたりもした。ボンの位置づけもあくまで暫定的なものであるとされ、70年代までは大規模な連邦施設の建設が制限された。そのせいか官庁街と言っても日本の霞が関のようにコンクリの塊のような役所が所狭しと林立しているわけではなく、広大な緑地の中に不揃いな建物が思い思いに点在している。(左は旧首相官邸前のアデナウアー像。)
現在、この区画には観光客向けにWeg der Demokratie(民主主義の道)と称する周遊コースと案内板が設置されている。かつての首相官邸や大統領官邸、連邦議会として使われた建物などを一通り見て回ることができる。ボンには現在でも連邦政府機関がそのまま拠点を残している現役の建物が多いが、訪れたのが金曜の夕方という時間帯だったせいか、驚くほど人気がない。
ふと工事中の一角に迷い込んだ。地図を確認すると、どうやらこのあたりがかつての連邦議会と連邦参議院の周辺部であったらしい。工事現場を挟んで、三階建てほどの白塗りの建物がぼんやりと佇んでいた。案内版を見つけて初めて、それがかつてParlamentarisher Rat が開催され、のちに連邦議会、連邦参議院が開かれたBundeshaus(連邦の家)という建物であることに気付いた。議事堂というにはあまりにも特徴のない建物であるが、ドイツの戦後民主主義はこういう場所から始まったのである。
70年代後半になって東西の分裂が定着し始めると、首都にふさわしくボンを作り変えるための拡張計画が俎上に上った。それからわずか10年あまりで壁が崩壊しドイツ統一がなされるとは、当時誰も考えていなかったのである。
壁が崩壊し、急速なピッチで東西ドイツ統一が実現する中、首都移転が議題に上るのは避けられなかった。ボン市民からは当然のことだが大きな反対運動がおこった。何より大量の連邦機関が移転することによる失業増大の可能性が懸念された。激しい議論の末、最終的に1991年6月、ベルリンへの政府・議会移転を決定する採決が連邦議会で決議された。338対320という、僅差の決着だった。
政府もボン市民の生活や感情を無下にするわけには行かず、首都機能移転に伴う問題を緩和するため、様々な措置を講じた。結果ボンは統一後も「連邦都市(Bundesstadt)」という国政上特殊な位置づけを確保され、いくつかの省庁はボンに本拠もしくは第二拠点を残すことになった。企業誘致も進められ、ドイツポストとドイツテレコムの二大巨大企業が本社をボンに据えた。加えて国際機関の誘致を積極的に行い、国際都市としての性格を強化していくことになった。かつて連邦議員会館であったLange Eugenという高層建築には現在11の国連機関が入居しており、周辺部は今も国際会議場として整備するための工事が続けられている。
周遊路を離れてライン川沿いに出てみた。連邦区を挟んだ対岸には目立った建築は見当たらず、延々と豊かな林が続いている。川岸からは背後の国連ビルとドイツポスト本社の高層建築が見えるだけで、他は緑の中である。国際的な政治の舞台には、水と緑の豊かな景色がよく似合う。
1999年6月1日、ベルリン連邦議会の改築が完了したのを受け、ボンの連邦議会で最後の本会議が開かれた。時の連邦首相ヘルムート・コール(Helmut Kohl)が、この町を舞台にドイツが戦後歩んできた民主主義の歴史を回顧する大演説を行った。以下はその一節である。
「ドイツの歴史では多くの政治的中心がありました。ボンは将来の世代に、ドイツ第二の民主主義が、また最も自由な、最も人間的で、最も社会的な国家体制が育まれた地、それが確かにドイツの地に存在したという証として、記憶され続けるでしょう。…ボンでは50年に渡りドイツ民主主義の命が脈打ち続けました。ベルリンと並び、ボンでは我々の歩みを決定づける多くの決定が下されてきました。この町は我々の連邦共和国の安定と成功に大きく貢献したのです。ボンは、この国が世界において信用と名誉と共感を再び取り戻すために大きく貢献した、一つの政治的文化を育むため、その温床を用意してくれたのです。」
ボンはわずか50年で首都としての役割を終えた。しかしその50年はおそらくドイツという国の歴史の中で、最大の困難と苦心、そして栄光に満ちた時間であった。
目の前のライン川はゆったりと流れていく。基本法の制定もBundesdorfへの嘲笑も首都移転を巡る激しい議論も、今となっては歴史の一ページである。ただ一世一代の大仕事を終えたボンの表情には、静かな安堵と充足感が満ち足りている。
日当たりの良い縁側で往年を回想する楽隠居のような、品位と深みを湛えた、穏やかな面持ちである。
ボン・デモクラシーという言葉がある。ドイツで形式上民主主義が成立したのはワイマール共和国期においてであるが、そのグロテスクな終焉は周知の通りで、ドイツ人にとっては現行の民主主義が史上初めて手に入れた安定したデモクラシーということになる。このドイツの戦後民主主義のことを称してボン・デモクラシーと呼ぶことがあるのだが、名の由来はもちろん旧西ドイツの首都、ボン(Bonn)から来ている。
第三帝国の崩壊後、通貨改革とベルリン封鎖を経て東西冷戦の機運が高まりつつあった1948年、英仏米の三か国の占領地域に当たる西ドイツ11州の代表がボンに集まった。その目的は東西ドイツの分裂状況を前提にして、西側諸州のみによる国家建設に向け、暫定的基本法案を策定することにあった。このParlamentarischer Rat(訳が難しい。実質は憲法制定議会。)は翌1949年5月1日にボン基本法を採択し、かくしてドイツの戦後民主主義が始まる。同時にボンは西ドイツの「暫定首都」としての地位を確立するのである。
このParlamentarischer Ratの議長を務めたのが後の西ドイツ初代宰相、コンラッド・アデナウアー(Konrad Adenauaer、左)であった。なぜこのライン川沿いののどかな田舎町が西ドイツの首都に選ばれたかについては、アデナウアーの個人的意向が大きく影響したと言われる。以前書いたことのあるように、西ドイツの首都の大本命は格式の帝国自由都市、フランクフルト・アム・マインであったが、アデナウアーは保守陣営の影響力の強いこの街を首都として推し、僅差でフランクフルトを破ることに成功したのである。
ドイツの戦後民主主義の骨格がボン基本法であることに疑いはないが、憲法の条文だけでは現実の国家は機能しえない。その意味でアデナウアーの都合15年にわたる治世こそが、この国のデモクラシーを実質あるものとした肉付け作業であったということができる。アデナウアー自身がボン近郊の出身であったという事実と思い合わせると、ボンはまさにドイツ人にとっての民主主義揺籃の地であったと言ってよいであろう。ボン・デモクラシーという言葉には恐らくそうしたニュアンスが含まれていると思う。
ボンは人口30万あまりという小さな町である。鄙びた雰囲気の駅舎の前から旧市街に伸びる目抜き通りは拍子ぬけするほど庶民然としていて、本当にこの町が大国ドイツの政治的中心だったのかと思わせるほど、首都としての威厳や威容といったものを感じさせない。といっても現在のボンは学生町としても高名で通りには若者が溢れており、決して活気がないというわけではない。ただ通常の首都に見られるような、権力者の時代から引き継いだ威勢のよい遺産、記念碑的な建造物が見当たらないということである。代わりに川沿いの町らしく、豊かな水と緑、そしてやわらかな空気が町全体を包んでいる。なるほどデモクラシーの故郷としては、こうした飾らない雰囲気の方がどこか似つかわしげにも思われてくる。
大通りの途中まで歩いて、脇の林道にそれた。しっとりとした雨が静かに景色を濡らして、冬枯れの森をゆく足音が静かに響きわたる。広大な沼の対岸には無言のままコングレスハレが座していて、その両脇を黒々とした冬枯れの木が断末魔のようにうねりながら、ねずみ色の空へ幾本もの手を伸ばしていた。この街の背負わされた過去の重さを思わせる、陰鬱な景色だった。
「ゲルマン人はよそ者と結婚して自分の血を汚すことをせず、純粋な民族の一体性をとどめている者たちである。彼らはみな同じ外観をしている。鋭い眼差しの碧眼、赤みがかった金髪、雄大に成長した体躯。」
タキトゥス(右)『ゲルマニア』からの引用である。タキトゥスは高度な文明生活の中で堕落していくローマ人に対するアンチテーゼとして、「高貴な野蛮人」たるゲルマン人を高く評価していた。
今日ではナチス流のいわゆる「アーリアン学説」を学問的に支持するものはいない。もとはインド=ヨーロッパ語族を話す人々共通の祖先として観念されたのがアーリア人で、古代にイラン・インドに入植した民族の「高貴な者」という意味の自称が「アーリア」であったとされる。この言葉はワイマール下のドイツにおいて奇妙な学説に発展する。すなわち、ゲルマン民族(つまりドイツ人)こそがこのアーリア人の最も純粋な生き残りであり、それゆえ諸民族の中で最も優れた人種なのであって、他民族を征服し世界帝国を築く使命を有する、というものである。その際、目下最大の標的となるのは、言うまでもなくユダヤ人であった。
子供じみた妄想としか思えないこの思想が、ナチス下のドイツでは国法という形に凝結したのである。1935年、例年通り開催されたニュルンベルクの党大会で即席で可決された法律ー「ドイツ人の血と名誉の保護のための法律」及び「帝国市民法」、通称「ニュルンベルク法」である。
同法によりドイツ人とユダヤ人の婚姻及び性的交渉が全面的に禁止され、違反者の男性には懲役刑が科せられた。同時にユダヤ人及び混血者の血量の度合(100%、50%、25%)に基づいて市民権を制限した。純粋なユダヤ人は市民権を剥奪され、公務や医師、弁護士などの仕事から排除された。この法律を契機に、以後ナチスのユダヤ人迫害政策がその度を強めていくことは周知のとおりである。(左は法律の概要を示す図解。)
婚姻や性的交渉を禁ずることで真正面から「血の保護」を達成するー人間の最も原初的な部分をこじ開け呼び覚ますようなどす黒さを感じさせる。実に古のゲルマンの野蛮さが、仮面を変えて20世紀に姿を表したような光景である。
ニュルンベルクはこの法律によって更に「ナチスの街」としての性格を強くした。そのことはこの街に対する連合国側の敵愾心をかき立てた。ニュルンベルクは大戦末期特に激しく空爆の標的となり、市街地の90%が破壊され、旧市街は廃墟と化した。ゲルマンの都の哀れな末路であった。
瓦礫の中に進駐してきた米軍は、まさしくこの地がナチスの拠点であったという理由から、その責任者を断罪する機関をこの地に開いた。ニュルンベルク国際法廷である。4年の長きにわたりナチスの闇を暴き、裁いた。(右はかつての法廷だった建物。)そしてニュルンベルクも新しい夜明けを迎える。
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