のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
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ボン・デモクラシーという言葉がある。ドイツで形式上民主主義が成立したのはワイマール共和国期においてであるが、そのグロテスクな終焉は周知の通りで、ドイツ人にとっては現行の民主主義が史上初めて手に入れた安定したデモクラシーということになる。このドイツの戦後民主主義のことを称してボン・デモクラシーと呼ぶことがあるのだが、名の由来はもちろん旧西ドイツの首都、ボン(Bonn)から来ている。
第三帝国の崩壊後、通貨改革とベルリン封鎖を経て東西冷戦の機運が高まりつつあった1948年、英仏米の三か国の占領地域に当たる西ドイツ11州の代表がボンに集まった。その目的は東西ドイツの分裂状況を前提にして、西側諸州のみによる国家建設に向け、暫定的基本法案を策定することにあった。このParlamentarischer Rat(訳が難しい。実質は憲法制定議会。)は翌1949年5月1日にボン基本法を採択し、かくしてドイツの戦後民主主義が始まる。同時にボンは西ドイツの「暫定首都」としての地位を確立するのである。
このParlamentarischer Ratの議長を務めたのが後の西ドイツ初代宰相、コンラッド・アデナウアー(Konrad Adenauaer、左)であった。なぜこのライン川沿いののどかな田舎町が西ドイツの首都に選ばれたかについては、アデナウアーの個人的意向が大きく影響したと言われる。以前書いたことのあるように、西ドイツの首都の大本命は格式の帝国自由都市、フランクフルト・アム・マインであったが、アデナウアーは保守陣営の影響力の強いこの街を首都として推し、僅差でフランクフルトを破ることに成功したのである。
ドイツの戦後民主主義の骨格がボン基本法であることに疑いはないが、憲法の条文だけでは現実の国家は機能しえない。その意味でアデナウアーの都合15年にわたる治世こそが、この国のデモクラシーを実質あるものとした肉付け作業であったということができる。アデナウアー自身がボン近郊の出身であったという事実と思い合わせると、ボンはまさにドイツ人にとっての民主主義揺籃の地であったと言ってよいであろう。ボン・デモクラシーという言葉には恐らくそうしたニュアンスが含まれていると思う。
ボンは人口30万あまりという小さな町である。鄙びた雰囲気の駅舎の前から旧市街に伸びる目抜き通りは拍子ぬけするほど庶民然としていて、本当にこの町が大国ドイツの政治的中心だったのかと思わせるほど、首都としての威厳や威容といったものを感じさせない。といっても現在のボンは学生町としても高名で通りには若者が溢れており、決して活気がないというわけではない。ただ通常の首都に見られるような、権力者の時代から引き継いだ威勢のよい遺産、記念碑的な建造物が見当たらないということである。代わりに川沿いの町らしく、豊かな水と緑、そしてやわらかな空気が町全体を包んでいる。なるほどデモクラシーの故郷としては、こうした飾らない雰囲気の方がどこか似つかわしげにも思われてくる。
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COMMENT
ボン
>ボン
ドイツでは法律で日曜は原則店開けちゃダメってことになってるんです。労働者保護の一環なんでしょうが、「消費者の利益」のプライオリティが低いですね。