のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
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私が毎日購読しているのは完全な地方紙で、州の政治や地域情報が全体の半分弱を占める地元密着の小型新聞である。まだまだ読む速度が遅い自分にはこの程度のサイズと情報量がちょうど良い。従って国際面の扱いは小さく、日本関連の記事はせいぜい月に一回見るか見ないか程度である。
それで先日久しぶりに東京発の記事が載っていると思ったら、その内容がこれである。
「G7会合で大臣はどもっただけ:
日本人は自国の政治家の醜態に慣れてはいるが、財務大臣中川昭一の今回の失態はただでさえピリピリしている政府の支持者たちを唖然とさせた。この55歳の男はローマで開かれたG7財相会合の締めくくりで、日銀総裁の傍でプレスの前に姿を現した時酔っ払っていたようで、マイクの前でろれつがまわらなかった。中川は「非常に疲れており、また風邪のため大量の薬を服用していた」と自己正当化した。「違う、飲んでない。」だがこの言い訳は何の役にも立たなかった。結局彼は辞任した。
財務大臣がカメラの前での自分の醜態をどのように理由づけようと、それが見苦しいことに変わりはなかった。野党は面汚しだと批判した。この映像は何度も繰り返し日本国民のお茶の間で流された。大臣の瞼が落ちる様子を多くの人が目撃した。記者の質問に答えようとした時、彼はろれつが回らず、ろくに文章の体をなしていなかった。ただでさえ打撃を受けている首相に中川は更なる一撃をお見舞いした。よりによって1945年以来最悪の経済危機のさなか、財務大臣は辞職した。「麻生政権は終わった。」50年以上ほぼ一貫して与党の座に留まり続けている自民党のある幹部が語った。」
記事の下部に瞼が落ちていかにも眠そうな中川大臣の記者会見時の写真まで載っている。さすがに独自取材ではなくドイツ通信社(DPA)の配信記事だが、正直こんな地方紙にまで記事が載るとは思ってなかったのでショックだった。調べてみると大手の全国紙はほぼ例外なく写真入りで今回の中川氏の醜態と辞任を報じている。南ドイツ新聞のHPにはご丁寧にもYoutubeのリンクまでついた記事があげられていた。ちなみに既にドイツ語タイトルでの動画もアップされている。
折しもクリントン米国務長官のアジア歴訪の文脈で日本関連の記事が多く、久しぶりに主要紙に目を通したが、ドイツメディアの日本への眼差しは間違っても暖かなもの、敬意に満ちたものではない。「神経過敏な日本に配慮してヒラリーは日本を第一の訪問国としたが、今回の歴訪の目玉は間違いなく中国だ」「日本は同盟国アメリカが中国と接近するのではと猜疑心を抱いている」などと、むしろ日本のあせりや苦境を嘲るような雰囲気すら感じられるところもある。
いずれにせよ市井の民衆の日本へのイメージは日々のマスメディアの報道いかんで決まる。大半の知識層も恐らく新聞以上の日本関連情報を自分で手に入れようとはしないだろう。不条理かもしれないがそれが現実である以上、メディアの前、とりわけ画像メディアの前で隙を見せてはならない。情報技術の発達した現代世界ではこうした珍事はあっという間に世界に流れ、国境を越えて物笑いの種になる。中川大臣が日常業務でどれほど敏腕で優秀であろうと、誰もそんなことを調べも注目もしない。ただ酩酊したとおぼしき大臣の映像とともに、さなきだに衰えつつある日本の国際的信用と影響力が、また一枚二枚と剥がれ落ちていくだけである。
現在のドイツ連邦共和国という国は主知的というか理性的というか、非常に前衛的で人工的な性格を前面に呈しているが、一方でその古層にはゲルマン民族が長くにわたって紡いできた伝統や慣習が澱のように沈殿していて、現在でも社会のところどころにその名残を留めている。この相反する二つの要素の摩擦と妥協とが現在のドイツという国を形づくっているのであり、この奇妙な混交状態は時に魅惑的で、時にまがまがしくもあるが、知的関心の対象として刺激的であることだけは間違いない。多くの日本人の先入観に反して現代ドイツの性格を一義的に把握することは決して容易な作業ではないのでないのである。こうした主題について考える際、この国とキリスト教との関わりは格好の素材を提供してくれる。
外国人として個々のドイツ人と付き合う際、宗教ーここではほぼキリスト教と同義だがーの重みを実感させられる瞬間はあまりない。普段の会話で信仰や宗教上の問題が話題に上ることはまずないし、ロザリオや聖書を持ち歩いている人もいない。教会以外の場で十字を切ったり、祈りを捧げたりするドイツ人の姿も見たことがない。とりわけ若者の宗教感覚は日本人のそれに近く、モラルは高いが宗教的にはほぼ無色な人間が大多数であるように思える。統計的にざっくり捉えるととカトリック3割、プロテスタント3割、無宗教3割、その他1割ということだが、少なくとも都市部における皮膚感覚では宗教性はぐっと低くなると考えてよい。
ただ、キリスト教やその関連団体が「制度として」社会にビルトインされている事例は至るところで観察することができる。そしてそのことは個々のドイツ人の宗教性とは別の文脈で、この社会におけるキリスト教の存在感を無視できないものとしている。
身近な例としてはドイツ国民の祝日を考えてみればよい。ドイツの暦を繰ってみるとイースターからキリスト昇天祭、クリスマスに至るまで、、国民の休日のほとんどがキリスト教由来のものであることが分かる。きちんと調べたわけではないが、俗世関連のお休みは5月1日のメーデーと10月3日のドイツ統一記念日くらいではないかと思う。
また日本でもよく知られているとおり、ドイツでは「教会税」の制度が未だ生き残っている。この制度はもともとキリスト教団体がドイツにおける実質的な社会福祉機能を代替していたことを前提に19世紀に導入されたもので、いわば国費による福祉政策の実行者としてのキリスト教団体の公認、という意味合いで捉えることができる。なお、この制度はいわゆる中世の「10分の1税」と異なることには留意しておく必要がある。
今ではこの制度も国家の宗教的中立性を保つべく現代風にアレンジされており、「宗教世界観団体」という公法上の認可組織の布施の徴収を所得税という形で国が代行する、という仕組みになっている。従って国家の干渉を嫌い自力で布施を集めるキリスト教団体もあるし、またユダヤ教会のように非キリスト教でありながらこの制度を利用している組織もある。とはいえ現実にはキリスト教団体が恩恵を被っている面は否めず、もちろんドイツ国内でも廃止論は存在する。
上述のように教会団体は昔からに様々な慈善活動を組織的に展開してきたわけだが、こうした伝統は現在に至るまで脈々と受け継がれており、教育や福祉の分野において非営利団体としての教会が発揮する組織力、影響力は強力なものがある。例えばカトリック系の社会福祉事業団体Caritasは失業対策や青少年更生、介護、老人医療や障害者支援から移民問題に至るまで、文字通りありとあらゆる社会分野にわたって活動する傘下組織を抱え、連邦全土で50万人の正規雇用を生み出している。私的団体としてはドイツ最大の雇用提供者であるという。
こうしたキリスト教の非営利団体としての存在感、影響力を反映してか、宗教団体、中でもカトリック司教の人事や発言はメディアにのることが多い。その点では日本の仏教や神道組織関連の記事がマスコミに取り上げられる機会が少ないのとは対照的である。
さて本題である。
こうした教会勢力の影響力は、保守的なことで知られるドイツ南部のバイエルン、とりわけ地方部で特に強いと言われる。現在の教皇ベネディクト16世(Benedictus XVI) はまさしくそのような村落で生まれ育った。ヨゼフ・アロイス・ラッツィンガー(Joseph Alois Ratzinger)は早くから聖職者を志してこの地方を中心に学業とキャリアを積み重ね、バイエルンの首府ミュンヘン(及びフライジング)大司教を務めた事もある。教皇選出当時、ドイツ、とりわけバイエルンは大きな熱気に包まれたという。
今月、このドイツ人教皇がかつて「ナチのガス室が存在したという証拠はない」と発言し、先代のヨハネ・パウロ2世に破門された経緯がある司教を赦免したことが、ドイツ国内で大きな議論を巻き起こした。ことはメルケル首相までも巻きこむ政治性の強い騒動へと発展したが、この事件は現代国家であるドイツと教会との関わりを考える上で興味深い。
中心部から地下鉄に乗って南に二駅ほど行くとBundesviertel(連邦区)という一画に入る。ボンが暫定首都と決定されたあと、この地域が議会や官庁街として整備され、西ドイツ政治の心臓部となった。
ボンが首都となった事実は、内外に驚きをもって迎えられたとともに、一部にはそれを嘲笑する向きもあった。あるアメリカの作家は「ボンはシカゴの中央墓地の半分の大きさしかない。だがその二倍分死んでるも同然だ」と嘲弄した。ドイツでもBundeshauptstadt(連邦首都)をもじったBundesdorf(連邦村落・連邦田舎)という意地の悪い造語が作られたりもした。ボンの位置づけもあくまで暫定的なものであるとされ、70年代までは大規模な連邦施設の建設が制限された。そのせいか官庁街と言っても日本の霞が関のようにコンクリの塊のような役所が所狭しと林立しているわけではなく、広大な緑地の中に不揃いな建物が思い思いに点在している。(左は旧首相官邸前のアデナウアー像。)
現在、この区画には観光客向けにWeg der Demokratie(民主主義の道)と称する周遊コースと案内板が設置されている。かつての首相官邸や大統領官邸、連邦議会として使われた建物などを一通り見て回ることができる。ボンには現在でも連邦政府機関がそのまま拠点を残している現役の建物が多いが、訪れたのが金曜の夕方という時間帯だったせいか、驚くほど人気がない。
ふと工事中の一角に迷い込んだ。地図を確認すると、どうやらこのあたりがかつての連邦議会と連邦参議院の周辺部であったらしい。工事現場を挟んで、三階建てほどの白塗りの建物がぼんやりと佇んでいた。案内版を見つけて初めて、それがかつてParlamentarisher Rat が開催され、のちに連邦議会、連邦参議院が開かれたBundeshaus(連邦の家)という建物であることに気付いた。議事堂というにはあまりにも特徴のない建物であるが、ドイツの戦後民主主義はこういう場所から始まったのである。
70年代後半になって東西の分裂が定着し始めると、首都にふさわしくボンを作り変えるための拡張計画が俎上に上った。それからわずか10年あまりで壁が崩壊しドイツ統一がなされるとは、当時誰も考えていなかったのである。
壁が崩壊し、急速なピッチで東西ドイツ統一が実現する中、首都移転が議題に上るのは避けられなかった。ボン市民からは当然のことだが大きな反対運動がおこった。何より大量の連邦機関が移転することによる失業増大の可能性が懸念された。激しい議論の末、最終的に1991年6月、ベルリンへの政府・議会移転を決定する採決が連邦議会で決議された。338対320という、僅差の決着だった。
政府もボン市民の生活や感情を無下にするわけには行かず、首都機能移転に伴う問題を緩和するため、様々な措置を講じた。結果ボンは統一後も「連邦都市(Bundesstadt)」という国政上特殊な位置づけを確保され、いくつかの省庁はボンに本拠もしくは第二拠点を残すことになった。企業誘致も進められ、ドイツポストとドイツテレコムの二大巨大企業が本社をボンに据えた。加えて国際機関の誘致を積極的に行い、国際都市としての性格を強化していくことになった。かつて連邦議員会館であったLange Eugenという高層建築には現在11の国連機関が入居しており、周辺部は今も国際会議場として整備するための工事が続けられている。
周遊路を離れてライン川沿いに出てみた。連邦区を挟んだ対岸には目立った建築は見当たらず、延々と豊かな林が続いている。川岸からは背後の国連ビルとドイツポスト本社の高層建築が見えるだけで、他は緑の中である。国際的な政治の舞台には、水と緑の豊かな景色がよく似合う。
1999年6月1日、ベルリン連邦議会の改築が完了したのを受け、ボンの連邦議会で最後の本会議が開かれた。時の連邦首相ヘルムート・コール(Helmut Kohl)が、この町を舞台にドイツが戦後歩んできた民主主義の歴史を回顧する大演説を行った。以下はその一節である。
「ドイツの歴史では多くの政治的中心がありました。ボンは将来の世代に、ドイツ第二の民主主義が、また最も自由な、最も人間的で、最も社会的な国家体制が育まれた地、それが確かにドイツの地に存在したという証として、記憶され続けるでしょう。…ボンでは50年に渡りドイツ民主主義の命が脈打ち続けました。ベルリンと並び、ボンでは我々の歩みを決定づける多くの決定が下されてきました。この町は我々の連邦共和国の安定と成功に大きく貢献したのです。ボンは、この国が世界において信用と名誉と共感を再び取り戻すために大きく貢献した、一つの政治的文化を育むため、その温床を用意してくれたのです。」
ボンはわずか50年で首都としての役割を終えた。しかしその50年はおそらくドイツという国の歴史の中で、最大の困難と苦心、そして栄光に満ちた時間であった。
目の前のライン川はゆったりと流れていく。基本法の制定もBundesdorfへの嘲笑も首都移転を巡る激しい議論も、今となっては歴史の一ページである。ただ一世一代の大仕事を終えたボンの表情には、静かな安堵と充足感が満ち足りている。
日当たりの良い縁側で往年を回想する楽隠居のような、品位と深みを湛えた、穏やかな面持ちである。
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