のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
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昔、司馬遼太郎が昭和天皇の崩御の際に書いた追悼論評で、「日本人にとって天皇という存在は神聖なる『空』であった。我々の追悼の祈りはこの偉大なる『空』に捧げられるべきものであると思う」と言った趣旨のことをのべていた。
昭和という、日本人にとってそれ自体が一大叙事詩と言って良い時代の物語を、この国の歴史群像の中で誰が一番顕現できるかと言えば、結局のところそれは昭和天皇という存在に帰着せざるを得ないのではないかという思いがある。それはケネディのアメリカ、ドゴールのフランス、ブラントのドイツといった、生身の政治的人間のカリスマが国家と時代を染め上げたという意味での動的な英雄ではなく、激動の時代を、最も「共に生きた」ことから滲み出てくる静かな思ひ出、それを回顧するに最も相応しい存在という意味での時代の象徴である。政治的英雄を輩出しないという不思議な風土を持つこの国において、時代の節目を作りうるのは政治家ではない。
自分の年齢ではこの辺りの感覚はつかみにくいところがあるが、恐らく我々より一つ上の世代の人々は、この背筋が曲がった丸メガネの老人の顔を目にするたび、否応がなしにこの国の背負う歴史の重みというものに直面せざるを得なかったのではないかと思う。昭和天皇はその意味でいささか「重い『空』」であったのではないかと思う。昭和陛下の崩御は、同時代人にとってはまさしく一つの時代の終焉であったと思う。
折しもベルリンの壁が崩壊して自由主義の勝利が高らかに宣言され、日本はまさにバブルの絶頂期であり、ジャパン・アズ・ナンバーワンが生きた神話として流布していた時代である。文字通り歴史は終わり、「平成」という元号の持つ朗らかな響きに、人々は新時代の幕開けを感じたのではないか。
こうした中で、天皇が如何に皇室の伝統と新時代の空気との狭間で自己の存在を規定していくかという作業は、想像以上に苦難と試行錯誤に満ちたものであったのではないかと思う。歴史の体現者としての昭和天皇が無言のうちに「国民の象徴」としての存在意義を充足できたのに比べ、平成という「歴史の終わり」から始めなければならなかった陛下は、自身の振る舞いによってのみしかそれを獲得する術がなかったのである。
結論から言えば、陛下はその役割を非常に見事にこなされたのだと思う。被災者や高齢者といった「弱者へのまなざし」という、日本人の琴線に最も触れる分野で限りなく国民との距離を縮める一方、歴史的存在としての日本国の体現者として、昭和の「負の遺産」に思いを致す機会を国民に不断に提供し続けた。皇統の継承者、日本神道の祭祀者として、宮中行事をおろそかにされることもなかった。国民への親近性と歴史的存在としての深遠さを二つながら誠実に真摯に推し進めていく態度、ご高齢を押してもこれら増大する公務負担に耐え精励される姿が、左右老若問わず国民の信頼を勝ち得ることに寄与したのだと思う。想像を絶する滅私と克己の精神、心身両面の堅い自己規律がなければ、なせることではない。
同時代人の所感としては、平成という時代はその明るい響きとは対照的に、物語の薄い虚無と停滞と混沌と失意がない交ぜになった鬱屈した時代である。時代性に伴うカリスマという利点を、いかなる意味でも陛下は得ることはできなかった。にも関わらず陛下はこの陰鬱な時代の最中にあって、見事に「神聖なる『空』」の領域を護持された。否、護持されたのではなく、陛下は自らの行いによって、新しくこの「空」の領域を造形し直されたと言った方が適切かもしれない。
皇后陛下と共に記念式典を観覧される天皇陛下は、無用な感情と脂身が削ぎ落とされた、実によい笑顔をしておられた。今のこの国に、こういう表情のできる男が果たしてどれほど残っているだろうかと思った。私は一個の人間としてこの人物に畏敬の念を感ぜざるを得なかった。その偉大さが、次に来る世代の凡庸さによって思い起こされることがないよう、静かに祈った。
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