のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
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Kから「明日の朝夜行バスで新宿につくから昼飯を食べよう」というメールが唐突に届いたのは、土曜の昼下がりのことだった。
Kは、中高生時代からの私の友人である。正確にいえば小学生の頃からの知り合いである。
私たちは当時、地元でスパルタ教育で有名だった同じ進学塾に通っていた。小学生のころの私たちはまだお互いの顔を知っていたくらいで、特段仲が良かったということではない。ただKの成績はほとんどいつもトップだったため、同じ塾の誰もが彼のことを知っていた。と言ってもKは特段目立つ男では全くなく、どちらかと言えば気の弱そうな、静かな優等生だった。私などは彼とは正反対の目立ちたがり屋で、いつも先生達の手を煩わせていたように思う。子供だった私は実に単純に毎度のテストの成績に一喜一憂していて、たまにKより点数が上だったりすると無邪気にはしゃいだ。
Kと親しくなったのは、中高で同じ将棋部に入ってからのことである。当時同じ学年には真面目な部員がKと私を含めて3人いた。私たちの将棋はそれぞれに個性が違っていて今から考えれば良い組み合わせだったが、実力はKが頭一つ抜けていた。
終盤になるにつれてあらが目立ちポカを繰り返す大雑把な私の将棋に比べ、Kの将棋は如何にも才気走っており、後半になるほど尻上がりに鋭さを増した。定跡や戦法の研究という点ではさほどこだわりを見せなかったが、実戦で通用するのは大抵彼の方で、結局3人の中で全国まで行けたのもKだけだった。将棋という小さな世界の話でありながら、恐らくこの時期に、私ははじめて「努力で越えられない何かがこの世には存在する」という、憂鬱な予感を肌身に感じさせられたのだと思う。
理系だったKはその後京都の大学に進み、建築を専攻に選んだ。私は東京の大学に進み、法律や政治を学んだ。文系理系と専門に重なりがなかったことは私のKに対する劣等感を育てずに済んだ。何かの拍子で大学時代の後半ごろから再び連絡を取るようになり、私がドイツに行くまでの間、年末の帰省の折には京都の彼の下宿に転がり込んで、2、3日暮れの古都の空気を吸ってから帰郷するというのが習慣になった。
Kの大学での研究は順調なようだった。Kの教授は彼の才能を高く評価していた。Kの作成した研究模型やプレゼン資料を見せてもらう機会もあったが、素人目にも垢ぬけたセンスを感じさせるものが多かった。その研究はのちに何かのコンクールで賞をもらった。京都という駘蕩とした雰囲気の漂う街でぼんやりと全く畑の違う学芸の話題に花を咲かせるのは、堅い勉強と実務に緊張していた頭と精神を緩ませる、少しデカダンスな瞬間だった。
Kはその後大学院まで進んだあと、東京の小さな建築事務所に就職した。だから彼が「夜行で東京に来る」というメールを送ってきた時、おや、と思った。彼が就職した直後、私はドイツに渡り、私が向こうにいる間は特段やり取りをしていなかったため、お互い事情に疎くなっていた。夏に帰国した際、彼にもその旨を知らせておいたのだが、会うのは今回がはじめてで、実に3年ぶりということになる。
久し振りに見るKは、相変わらずひょうひょうとしていた。私たちは雑踏を避けて西新宿の高層ビル群の方へ歩いて行き、とあるビルの最上階に上って、東京を見下ろせるすし屋に入った。ビールを飲んだ後、自然と仕事の話になった。Kは淡々と、むしろ少し愉快そうに、今の身の上を語った。
彼の就職した事務所は、この不況の煽りで資金繰りに失敗し、1年ほどで潰れたのだという。
Kの父は地元では知られた企業の社長をやっていたが、その会社も彼が大学生の時に倒産した。そのため彼は大学時代経済的に厳しい生活を送ることになっていた。毎度泊めてもらう彼の下宿は中心部への便が悪く、築30年の古びたアパートだった。
しかしその事務所が民事再生法を申請する顛末を語るKは、意外にさばさばとしていた。
事務所がつぶれた後、彼は京都の研究室に戻った。学費は奨学金と仕事で稼いでいるという。仕事と言うのはウェブデザイナーということで、前の事務所で培った人脈とスキルで月に10万程度は稼ぎがあるということだった。今は気の合う仲間と一戸建てを6人で借りて共同生活を営んでいるという。
私の方と言えばさほどドラマチックな話もできるはずもなく、財政赤字がどうの、行政改革がこうの、政治主導がどうのこうのと、Kの知識と関心が薄い分野であることをいいことに、生半可な抽象論を振り回して放言した。
ひとしきり話した後、場所を変えてコーヒーでも飲もうということになって、私たちはまた人気の少ない高層ビルの麓をぶらぶらと歩いた。とりとめもなく話題は将棋や旧友の消息に移った。懐かしい戦法や友人の名前が中空に浮かんではすぐに消えた。
道すがら、私がドイツにいる間にできたロケット型のコクーンタワーを指差して、「同じような建物がロンドンにもあったよな」と言うと、「こっちのは構造とデザインが分離してるから評判悪いんだよ」と、Kはさっくりと答えた。
とあるビルのふもとに見つけた喫茶店に向かうと、面白いことにたまたまその隣のフロアを借りて、全国の建築学部の卒業制作コンクールの展示イベントが行われていた。
ぶらぶらと展示されている卒業制作を眺めているKに、私はあれはいい、これはだめと、横から口軽く素人批評を投げかけて見た。Kはその度に軽く笑いながら、しかし制作物から目を離さずに、適当に私の答えをあしらった。
ふと私の脳裏に「歳月」という言葉が浮かんだ。私はぼんやりとつぶやいた。
「おれら、もう15年のつきあいなんやなあ」
私の真意を知ってか知らずか、Kは一瞬間をおいてから、やはりぼんやりとつぶやいた。
「そうやなあ」
どちらからともなく、失笑とも自嘲ともとれる笑いが噴き出した。
気がつけば優等生だったKよりも、気性でも成績でも棋風でも波が激しかった私の方が、ずっと単純で安定した人生を歩むようになっていた。ただ私たちにとって滑稽だったのは、そういう人生の変転そのものというよりも、それを感じることができるまでにいつの間にか重ねてしまった15年という歳月の、意外なほどカラリとした佇まいの方であった。
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