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望雲録

のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

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ニュルンベルク~ゲルマンの都(4)

Gaius_Cornelius_Tacitus.jpg 「ゲルマン人はよそ者と結婚して自分の血を汚すことをせず、純粋な民族の一体性をとどめている者たちである。彼らはみな同じ外観をしている。鋭い眼差しの碧眼、赤みがかった金髪、雄大に成長した体躯。」
 タキトゥス()『ゲルマニア』からの引用である。タキトゥスは高度な文明生活の中で堕落していくローマ人に対するアンチテーゼとして、「高貴な野蛮人」たるゲルマン人を高く評価していた。

 今日ではナチス流のいわゆる「アーリアン学説」を学問的に支持するものはいない。もとはインド=ヨーロッパ語族を話す人々共通の祖先として観念されたのがアーリア人で、古代にイラン・インドに入植した民族の「高貴な者」という意味の自称が「アーリア」であったとされる。この言葉はワイマール下のドイツにおいて奇妙な学説に発展する。すなわち、ゲルマン民族(つまりドイツ人)こそがこのアーリア人の最も純粋な生き残りであり、それゆえ諸民族の中で最も優れた人種なのであって、他民族を征服し世界帝国を築く使命を有する、というものである。その際、目下最大の標的となるのは、言うまでもなくユダヤ人であった。

 子供じみた妄想としか思えないこの思想が、ナチス下のドイツでは国法という形に凝結したのである。1935年、例年通り開催されたニュルンベルクの党大会で即席で可決された法律ー「ドイツ人の血と名誉の保護のための法律」及び「帝国市民法」、通称「ニュルンベルク法」である。

BlutSchutzgesetz_Bildtafel.gif 同法によりドイツ人とユダヤ人の婚姻及び性的交渉が全面的に禁止され、違反者の男性には懲役刑が科せられた。同時にユダヤ人及び混血者の血量の度合(100%、50%、25%)に基づいて市民権を制限した。純粋なユダヤ人は市民権を剥奪され、公務や医師、弁護士などの仕事から排除された。この法律を契機に、以後ナチスのユダヤ人迫害政策がその度を強めていくことは周知のとおりである。(左は法律の概要を示す図解。

 
 婚姻や性的交渉を禁ずることで真正面から「血の保護」を達成するー人間の最も原初的な部分をこじ開け呼び覚ますようなどす黒さを感じさせる。実に古のゲルマンの野蛮さが、仮面を変えて20世紀に姿を表したような光景である。

 ニュルンベルクはこの法律によって更に「ナチスの街」としての性格を強くした。そのことはこの街に対する連合国側の敵愾心をかき立てた。ニュルンベルクは大戦末期特に激しく空爆の標的となり、市街地の90%が破壊され、旧市街は廃墟と化した。ゲルマンの都の哀れな末路であった。
 瓦礫の中に進駐してdee39657jpegきた米軍は、まさしくこの地がナチスの拠点であったという理由から、その責任者を断罪する機関をこの地に開いた。ニュルンベルク国際法廷である。4年の長きにわたりナチスの闇を暴き、裁いた
。(右はかつての法廷だった建物。)そしてニュルンベルクも新しい夜明けを迎える。

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ニュルンベルク~ゲルマンの都(3)

 19世紀から20世紀初頭にかけてのニュルンベルクは産業革命の寵児となった。この時代ニュルンベルクは急速な工業化を果たし、大戦前の人口は33万を数え、19世紀初頭に比し実に15倍に膨れ上がった。ちなみにドイツで初めて鉄道が開通したのは1835年、この街においてである。

 経済的復活を背景にニュルンベルクではかつての自由な都市の気風を取り戻し、1848年革命の際もフランクフルト国民議会への積極的な支持を表明した。中にはこの街の歴史的な意義を説き、統一後のニュルンベルクをドイツの帝都とするべ450px-Nuernberg_gnm_haupteingang_v_sw.jpgきだと主張する者もいた。ちなみにこの貴族(フォン・アウフゼッツ250px-Essenwein-1884-germ-nat-museum-ausbau-sw.jpg卿)は、ニュルンベルクに「ゲルマン博物館」を設立したことで知られている。変転を続けながら現在まで存続しているドイツ最大規模の国立文化博物館である(右は設立時、現在それぞれの写真)。


 ナチスが初めてニュルンベルク史に登場するのは1927年、この街で草創期のナチス党大会が開催されたころである。ヒトラーがミュンヘン一揆後の拘禁から解放されたのが1925年の冬のことであるから、ヒトラーは権力掌握のかなり以前からこの街の地理的、歴史的な重要性に注目していたといえる。急速な経済発展によって繁栄を享受したニュルンベルクは、その重要性ゆえに、ナチス発祥の地ミュンヘンから権力の中枢ベルリンに至る「橋渡し」の役割を担わされることになった。

plakat_adler.jpg 実際、ニュルンベルク近郊はナチスの強固な政治基盤としての役割を果たしていたし、ニュルンベルクは何より神聖ローマ帝国の中枢としての重厚な伝統を背負っていた。この地はドイツ帝国(Reich)の系譜を継ぐ「第三帝国」の成立を国内に喧伝するにふさわしい歴史的背景を有していたわけである(左はニュルンベルク市を取り上げたナチスの宣伝ポスター。)。

 1933年のヒトラー首相就任直後の8月、ニュルンベルク南東部の180px-Reichsparteitag_1935.jpgDutzend池周辺で「勝利の帝国党大会(Reichsparteitag des Sieges)」と銘打ったナチス初の本格的な党大会が開催された。もとは保養地として発達したこの地域には、以後、党威発揚のための舞台装置として大規模な建築物が次々と建立され、第二次大戦の開始される1939年まで、毎年定期的に党大会が開催された。最盛期にはドイツ全土から百万人を超える党員が集結し、ナチスとヒトラーの栄光を称えた。

 ここにナチスとニュルンベルクは歴史的に固く結び付けられた。Die Stadt der Reichsparteitag(帝国党大会の都市)の誕生であった。

ニュルンベルク~ゲルマンの都(2)

DSCF7309.JPG 神聖ローマ皇帝の拠点であるニュルンベルク城には「城伯」と称する城の管理者が皇帝から任命され、同時に市内の行政にも当たっていた。のちのプロイセンを立てるホーエンツォレルン家は、一時この城伯の地位を世襲していた。
 
 ただ同家は15世紀半ばにこの城を城伯の地位もろとも手放してしまう。相手はなんと「ニュルンベルク市会議所(Rat der Stadt DSCF7300.JPGNürnberg)」であり、事実上の売却であった。中世後期には欧州内陸での交易活動が活発化し、ドイツ領域内で数多くの都市国家が成立し勢威を振るうこととなる。由緒正しい帝国の城が町人の手に売り飛ばされるという光景はそうした時代を象徴している(右はニュルンベルク市庁舎)。

474px-Self-26.jpg 以後この街の行政は経済力のある市の商人階級の代表者による合議制の形をとることになる。都市国家としての基盤を固めたニュルンベルクは地域抗争を勝ち抜き、一方の地域勢力に成長し、全盛期を迎える。ちなみにドイツ人としては珍しく画家として名前の知れているデューラー(Albrecht Dürer、左)はちょうどこの時期のニュルンベルクで活動していた。
 

 この街の繁栄の終りの始まりは三十年戦争であった。ニュルンベルク市自体はこの戦争による被害を免れたものの、周辺地域が荒廃して次第に経済的な孤立性を強め、かつての経済的繁栄は次第に陰りを見せ始めた。何より1648年のウェストファリア条約で領邦君主の「主権」が確認され、神聖ローマ帝国の崩壊が事実上決定的なものとなると、帝国都市としての権威も色褪せてしまった。主権領域国家の時代の足音が聞こえてくるころには、ニュルンベルク市は巨大な債務を抱えた前近代の遺物のような一地方都市になり下がってしまった。一時期プロイセンへの併合を懇請したが、あまりの債務の大きさに逆に拒否されたという、屈辱的な逸話まで残っている。
 
 結局この街もほかの多くのドイツ都市と同様、ナポレオンの侵攻によって、その長い中世に幕を下ろすことになる。1806年、神聖ローマ帝国は滅亡した。帝国都市の称号を失ったニュルンベルクは同時に成立したライン同盟の主要国、バイエルン王国に併合され、近代への扉を開かれることになる。

ニュルンベルク~ゲルマンの都(1)

 前置きが長くなった。

 いずれにしても、このゲルマンという言葉はドイツという国の深い闇に根を降ろしていて、歴史のしじまから黒い妖気を吸い上げているような不気味なイメージがある。Karte_Deutschland.png
 ニュルンベルクは、そうした「ゲルマン」の負のイメージと、不幸にももっとも強く結び付けられてしまった街である。現在のドイツの中心よりやや南、バイエルン州の北端に位置し、50万の人口を擁する。大都市としての快適さと歴史都市としての重厚さがほどよく調和した、住み心地の良さそうな街である。

 ニュルンベルクの歴史は何より神聖ローマ帝国の歴史と深く結び付いている。この街の旧市街の丘上に聳えるニュルンベルク城は、神聖ローマ帝国のまさに中心部に位置するという地理的条件もあいまって、帝権の伸長と共にその重要性を増していった。

 中世起源の城らしく武骨な雰囲気を残すこの城は、やがてドイツ皇DSCF7303.JPG帝たちの代表的な拠点として発展した。その重要性ゆえ、城下町であるニュルンベルクは1219年、帝国領内で初めて皇帝直轄地として包括的な諸権限を認められることになる。これが後にドイツ全土に適用される「帝国自由都市」のさきがけとなるわけだが、
こうした特権的地位を背景に、14世紀から16世紀にかけて、ニュルンベルクは急速な発展を遂げる。

 302c74a1jpegこの街の重要性を示す一例としてReichskleinodien(左)の保管地としての位置づけがあげられる。神聖ローマ皇帝にも日本の三種の神器と同じく、皇位継承者が受け継ぐ装身具が存在し、戴冠時にはこれらの衣装を身にまとうのが慣例とされていた。ニュルンベルクは15世紀以降この装身具が鎮座する場所として指定され、19世紀にナポレオンの侵攻に際してウィーンへ移転させられるまでその地位を保ち続けた。

 現在の街区はこの街の最盛期であった中世の街並みを基調に戦後再建されたものである。駅を降りて旧市街を見やると、まず石積みの古風な城壁を目の当たりにさせられる。それを越えた内部に伸びる大通りは近代的なショッピング街で、人通りの多い賑やかな通りが続く。ただふっと脇道にそれると、中世の町に迷い込んだかのような瀟洒な街区に出くわしたりする。

 中世の面影を引くドイツの町は、積木細工のようにかわいらしい街DSCF7333.JPG並みを残す町が多い。ただその表情は気まぐれで、天気ひとつで打って変った不気味な雰囲気を醸し出したりもする。どんよりと曇った空の下、鉛色の川にかかる古い石橋、それを縁取る木組みの家屋、葉が落ち切ったにも関わらず妙な存在感を示す黒い木々、人気のない雨のニュルンベルクには、「ゲルマン」という言葉の持つ響きがよく似合う。

ゲルマンについて

 ゲルマンという言葉は、何やら魔術的な響きを持っている。

 昨今でも日本のメディアでは「ゲルマン魂」などという言葉がよく使われる。ドイツの英語表記はGermanyで、これはそのまま「ゲルマンの国」の意であるから、ゲルマン=ドイツと解しても、狭義の語法としてはあながち間違いというわけではないらしい。

 この「German」という言葉は元来もう少し広範な概念であった。というのも、ゲルマンという言葉は「ゲルマニアの住人」を意味し、ローマ人による北方諸民族に対する包括的な他称であったからである。別にのちのドイツに当たる地域に限定された言葉ではなく、ローマ文明の北方を脅かす連中を一絡げにした概念であり、その意味で未開と野蛮の象徴のような響きがある。

 この言葉がはたしていつ頃からドイツという概念との結びつきを深くしていくのかは定かではない。ただ非ローマ=ゲルマンという公式で捉えるならば、現在のドイツ地域、すなわちライン、ドナウ、エルベ三川に囲まれた領域は、言語の面でも習俗の面でもローマ帝国の影響を受けることが少なかった分だけ、より色濃くゲルマン的な要素を引き継いだ地域であったとは言える。

 ちなみにドイツの国名はドイツ語でDeutschland(ドイチェラント)であり、「民族(大衆)の言葉を話す者の国」程度の意味で、早くからこのDeutschという言葉は教養階級の言葉としてのラテン語との対比において「民族(大衆)の言葉」という意味を与えられていた。9世紀にフランク王国が分裂した際、すでに東西フランク王国間の外交文書では西フランク王国の言葉としての原フランス語(もちろんラテン語起源である)、東フランク王国の言葉としての原ドイツ語がすでに併記されていたという。言葉の境界が国境線と、さらにいえば「文明」の境界線と、大体一致していたことが示唆されている。

 華やかなだが惰弱な文明としてのローマ、野蛮だが(あるいはそれゆえに)生命力に漲ったゲルマンというイメージの対比は、すでに使用される言葉の位置づけからもその萌芽を見ている。

 こうした「高貴な野蛮人」としてのゲルマンのイメージは、近代に入ってからドイツ国民国家形成に大きな役割を果たした。いわゆる「汎ゲルマン主義」だが、ここでいうゲルマン民族とは、「ドイツ語を話す民族」とほぼ同義語であった。いかにも国民国家の時代、19世紀の所産のような言葉だが、このイデオロギーはドイツ統一後も加速し続け、ドイツ帝国の海外伸長政策の理論的基盤となり、ついには第一次大戦という悲劇的な結末を導くことになる。

 第一次大戦の敗戦を経験したのちも、このゲルマンという言葉は死に絶えることはなかった。敗戦の辛酸と屈辱の中でグロテスクな発展を遂げたこの言葉は、やがて「高貴なるアーリア人」という奇妙な概念の衣を被り、再び歴史の表舞台に登場する。それを政治プロパガンダに最大限利用したのがヒトラーであった。

 ゲルマンという言葉は今でもドイツ人の民族性を象徴する言葉に変わりはないのだが、この国の血塗られた近代史の生臭いにおいが拭い切れていない。そのせいか、現在のドイツではGermanenとかgermanischといった用語を目にする機会は少ないように思われる。

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読書、旅行
自己紹介:
三度の飯より政治談議が好きな30間近の不平分子。播州の片田舎出身。司馬遼太郎の熱狂的愛読者で歴史好き。ドイツ滞在経験があり、大のビール党。
[12/16 abuja]
[02/16 einjapaner]
[02/09 支那通見習]
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