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望雲録

のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

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S・A閣下のベルリン(3)

 青木は他の欧州留学者とともに十二月フランスはマルセイユに到着する。この間引率のプロイセン領事リンダウが病に倒れたため、青木たちは当初の予定を変更してマルセイユ、パリに数か月滞在することとなる。美しい街並みもさることながら、彼が最も感動させられたものは「軍隊」であったというから、当時の留学生たちの国士然とした雰囲気がうかがいしれる。

「時正に那翁三世の全盛期に属し、新に伊太利の戦役に勝利を得たる仏帝は、欧州の覇権を掌握せんとする虚勢を張り、従て其の軍隊は堂々当る可からざるの観あり。依て予は我日本にして此の如き精鋭の軍隊を有せば、王政復古更始一新の事易々たらんのみ、嗚呼我国は何れの日か果して能く此の域遇に達すべけんと、心密に羨望しつつ、一日も早く我が国運の発達せんことを祈れり。」(『青木周蔵自伝』)

 パリに滞在するうちに知り合いになったフランス人の中には、「ドイツみたいな片田舎に行ってどうする。パリにとどまった方が良い」と主張するものもあったと言う。だが青木は頑として自説を曲げず、リンダウ領事の回復を待ってようやく4月にドイツ入りを果たす。ベルリンへの道すがら、ハノーファーで乗り換え列車を待つ間、彼は思いがけずプロイセン軍の軍事教練を目にし、強い衝撃に打たれる。

「服装は素朴なれども身幹長大の兵士が、軍容堂々一歩毎に地盤を動かすが如き力ある歩調を以て進行し、恰も鬼群の運動を見るが如くなりき。」

 ベルリンに到着後も青木のプロイセン軍熱は冷めない。

「普国兵の質朴強顕なる、ごうも仏国兵に見るが如き軟弱の態度を存せず。其規律厳正にして、一点の弛緩なき、予等門外漢と雖も、密に仏国軍隊は到底普国軍隊の好敵手にあらざるを察知せり。…其の様、恰も我国武士の態度に似たり。」(『同上』)

 後年青木は「独逸翁」「独逸の化身」と揶揄されるほど熱狂的なドイツ信奉者になるが、意気盛んなプロイセン軍人の雄姿は彼の原風景なのであろう。

 こうして青木のドイツ留学生活が幕を開けるわけだが、とはいえいきなり専門の勉強を始められるわけもなく、まずは語学との戦いである。当時はもちろん語学学校などといった気の利いたものはない。それどころか独和辞書すらないわけだから、恐らくは蘭和辞書と独蘭辞書を合わせ使って単語を解していったのだろうと推察される。

 青木は一人で渡航したわけではなく、同行人に萩原三圭という人物がいた。萩原は土佐出身の医家で、帰国後は東大教授となり小児科の権威となる。二人は当初、リンダウの紹介でマースと言う小学校教師の家に居候し、ドイツ語学習に専念することになる。今風に言えばホームステイである。地球の裏側の異人の家で床についた彼らの不安の大きさ、心細さは如何ほどのものであったか。文明社会に生きる我々には想像もつかない。

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S・A閣下のベルリン(2)

 欧州への留学生派遣は明治以降に始まった話ではなく、すでに幕末より幕府や各藩は様々な形で子弟を海外に送り出していた。しかしこうした草創期の留学先としてはアメリカ、イギリス、フランスが主要で、まだドイツ(プロイセン)の重要性は一般に知られてはいなかった。
 その中で日本とドイツを最初に結びつけたのは「医学」であった。ペリー来航直後、幕府は江戸時代を通じて関係の深かったオランダに近代的海軍創設のための援助を依頼する。一八五五年、海軍伝習所が長崎に設置され、オランダ教授陣による軍学講義が開始される。その一環として医学の伝習が行われるのだが、次第に聴講生達は講義に使用される教科書がほとんどドイツ医学書の翻訳であることを知り、ドイツ医学の先進性に気づき始める。

 青木がドイツの重要性を認識したのも和蘭医学を通じてである。青木はもともと長州藩蘭方医三浦玄仲の長男として生まれ、後継ぎとして医学蘭学の素養を仕込まれるが、年来より「何とかして国家に益する学問、即ち、政治に関係ある学問を修め、漸次政治に参与すべき位置を得ん」との志を持っていた。
 青木は幕末の激動の長州藩の中にあって蘭学の勉強を進め、やがて萩の蘭方医青木家の養子に迎えられる。青木家は藩医学校の教頭を務める名門であった。こうした蘭学修行の過程の中で大村益次郎など藩要人の知遇を得、留学に向けた足掛かりを作っていくことになる。

 勉強が進むにつれ、国内で西洋知識を修めることの限界を悟り始めた青木は欧州留学の希望を強く抱くようになる。そして彼は当時では極めて異例なことにプロイセン留学にこだわったのである。

「当時我国に於ては英・仏・米三国の名最も人耳に熟せしが故に、此の三国に留学するは邦人の見て以て首肯するところなるも、普国に留学するがごときは世人太だ之を奇怪としたり。しかれども予が多数人士の意向に反し、敢て普魯西行の留学を決定し、併せて政府の許可を請求したるには重大な理由あり。即ち、従来予の閲読せし和蘭医書は大半独人の著述を翻訳せしものなるのみならず、予は某蘭書中の一項に於て、凡そ学問に於ては能く独逸の右に出づるものなしとの数語を読みたる事あり。此等の証左に拠て推測するに、研究最も困難なる医学にして斯く著しく発達し、蘭人仰ぎて以て其の師と尊崇する普魯西国に於ては、其の他の学科も亦た必ず他国に卓越せるものあるべく、殊に一千八百六十六年の普墺戦役に勝利を博し、目下旭日昇天の勢ある普国に遊ぶは、自己平生の目的たる政法の学を修むるに最も適当なりと思考せしがためなり。」(『青木周蔵自伝』)

 情報も前例も乏しい当時の状況で、北辺の新興国プロイセンへの留学を断行するのは容易でなかったろう。何しろこの時点ではまだドイツ帝国すら成立していない。結果としてこの「賭け」は「成功」し、青木の着眼の確かさが証明されることになるのだが、後年このくだりを書きながら青木は内心得意だったに違いない。

 桂小五郎など要路への働きかけを経て彼の念願が実現したのは、戊辰の戦禍未ださめやらぬ明治元年(一八六八)十月のことである。青木周蔵、二十六歳の秋であった。


S・A閣下のベルリン(1)

 ドイツに留学した日本人の中で最も著名なのは間違いなく森鴎外だろうが、彼がベルリンに到着した直後、時の駐独公使S・Aなる人物に挨拶しに行った話が手記『大発見』に記されている(tamnyさん、教えてくれてありがとうございます)。
 ちょっと長くなるが、軽みのある実に見事な文章であり、時代の雰囲気をよく伝えてくれるので、引用したい。

 公使館はフオス町七番地にあつた。帝国日本の公使館といふのだから、少くも一本立《だち》の家で、塀《へい》もあるだらう、門もあるだらうなどと想像してゐたところが往つて見ると大違である。スウテレンには靴屋の看板が掛かつてゐる。その上がパルテルである。戸口に個人の表札が打ち附けてある。今一つ階段を上る。そこが公使館であつた。這入《はい》つて見れば狭くはない。却《かへ》つて広過ぎて、がらんとしてゐるといふやうな感じのする住ひであつた。
 若い外交官なのだらう。モオニングを着た男が応接する。椋鳥は見慣れてゐるのではあらうが、なんにしろ舞踏の稽古《けいこ》をした人間とばかり交際してゐて、国から出たばかりの人間を見ると、お辞儀のしやうからして変だから、好い心持はしないに違ない。なんだか穢《きたな》い物を扱ふやうに扱ふのが、こつちにも知れる。名刺を受け取つて奥の方へ往つて、暫くして出て来た。
「公使がお逢になりますから、こちらへ。」
 僕は附いて行つた。モオニングの男が或る部屋の戸をこつ/\と叩く。
「ヘライン。」
 恐ろしいバスの声が戸の内から響く。モオニングの男は戸の握りに手を掛けて開く。一歩下《さが》つて、僕に手真似《てきね》で這入れと相図《あひづ》をする。僕が這入ると、跡から戸を締めて、自分は詰所に帰つた。
 大きな室である。様式はルネツサンスである。僕は大きな為事机の前に立つて、当時の公使S.A.閣下ど向き合つた。公使は肘《ひぢ》を持たせるやうに出来てゐる大きな椅子《いす》に、ゆつたりと掛けてゐる。日本人にしては、かなり大男である。色の真黒な長顔の額が、深く左右に抜け上がつてゐる。胡麻塩《ごましほ》の類髫《ほおひげ》が一握程《ひとにぎりほど》垂れてゐる。独逸婦人を奥さんにしてをられるとかふことだから、所謂《いはゆる》ハイカラアの人だらうと思つたところが、大当違《おほあてちがひ》で、頗《すこぶ》る蛮風のある先生である。突然この大きな机の前の大きな人物の前に出て、椋鳥の心の臓は、歛《をさ》めたる翼の下で鼓勘の速度を加へたのである。
「旧藩主の伯爵が、閣下にお目に掛つたら、宜《よろ》しく申上げるやうにと、申す事でござりました。」
「うむ。伯爵も近い内に来られるといふではないか。」
「さやうでござります。何《いづ》れお世話にならなければならんと申されました。」
「君は何をしに来た。」
「衛生学を修めて来いといふことでござります。」
「なに衛生学だ。馬鹿な事をいひ付けたものだ。足の親指と二番目の指との間に縄《なは》を挾《はさ》んで歩いてゐて、人の前で鼻糞《はなくそ》をほじる国民に衛生も何もあるものか。まあ、学問は大概にして、ちつと欧羅巴人がどんな生活をしてゐるか、見て行くが宜しい。」

 このS・A閣下なる人物はのちの駐英大使、青木周蔵である。日本史の文脈では第一51f25b97.jpeg次条約改正交渉で英国と交渉した外務大臣だったこともありイギリス通のイメージが強いが、実は留学生・外交官としてベルリンに20年以上滞在しており、生粋のプロイセン信奉者であった。青木はいわば明治日本のドイツ留学第一期生にあたる。普仏戦争以前、まだ日本では実態のよく知られていなかった新興国プロイセンの重要性をいち早く認識し、ベルリンを訪れる政府要人にプロイセンの近代国家モデルとしての意義を熱心に説き、同じ長州閥の山県有朋や木戸孝允に大きな影響を与えた。戦前日本のドイツ傾斜に結果として最も大きな役割を果たした人物の一人である。


日本の味

 一般論で言ってドイツで日本食を入手するのはあまり簡単ではない。とは言ってもドイツでも大都市では日本米も炊飯器も手に入る。それなりの規模のアジア食品店に行けば醤油や酒と言った基本的な調味料はもちろん、カップラーメンやお茶漬け、納豆、豆腐、カレールーなども手に入るので、自炊の手間を惜しまなければ毎日のように日本食を作って食べることは十分可能である。

 私はどちらかと言えばあまり食にこだわりのない人間だが、ドイツ人はこと食べ物に関しては驚くほど関心が低いので、彼らのレベルに合わせて生活するのは正直きつい。たとえばドイツ人は夕食をまともに食べない人が多い。ある友人に「何で夕食をもっとちゃんととらないんだ?」と聞いたら、「夜に肉とか食べたら消化が悪くて健康に悪いだろう」といかにもドイツ人らしい回答が返ってきて唖然とさせられたことがある。昼にあれだけ脂ぎった料理を平らげる連中が「健康」とは恐れ入る。

 こんな状況なので今では私もカレーや肉じゃがといったごく簡単な料理を日常的に作るようになっている。もちろん安上がりだという理由もある。こちらの炊飯器は保温機能といった気の効いたものは普通ついていないので、余ったご飯は冷蔵しておいてあとでチャーハンやお茶漬けにして食べることが多い。

 こういう食生活の中では「日本食を食べて日本が懐かしくなる」という瞬間はあまりなかったのだが、先日たまたま行きつけのアジアショップで「信州そば」を見つけたのである。ちょうど麺類を食べたいと思っていたところなので、そばつゆと一緒に買って早速ざるそばを作って食べてみた。

 これが、うまい。

 そばの風味のおかげなのかそばつゆのおかげなのか、はたまたワサビのおかげなのかは分からないが、自分の中でこの一年間長い眠りについていた味覚が突然呼び起されたような感覚だった。「日本の味」、そんな言葉が頭をよぎった。懐かしいような寂しいような、暖かいような切ないような、何とも不思議な感覚だった。

 よくお茶漬けや梅干しが日本の味の代表といわれるが、私にとっての「日本の味」は、どうやらそばだったようである。あれ以来毎日のようにそばを食っているが、身体の方も久々の日本の味に喜んでいるのか、飽きることがない。そば狂いは当分続きそうだ。


ビールの話(4)

 それではドイツの多様なビールの一端を覗いて見よう。

 まずは南部バイエルン地方のヴァイスビアー(Weissbier、直訳すると白ビール。45832234_0f96b06090.jpgWeizenとも言う。)である。原料に大麦ではなく小麦麦芽を中心に用いた上面発酵ビールで、歴史は古い。クリーミーな泡立ちと苦味のほどんどない甘くてコクのある飲み心地が特徴である。近年日本でもひそかに人気が高まっていると聞く。様々な企業が醸造しているが、私のお気に入りはミュンヘン北部のヴァイエンシュテファン醸造所のヴァイスビアー(右)である。ちなみにヴァイエンシュテファンは世界最古の現存する醸造所として有名である。


53c8b286.jpeg お次はドイツ北西部、デュッセルドルフを中心に醸造されるアルトビアー(Altbier、旧来の、本格的な、といった意味)。この地域はフランドル地方と隣接していて、中世より商業都市として発達してきた歴史を持つ。そのため貿易を通じて英国との関わりが深く、ビールの製法も英国の影響を強く受けたとされる。従ってこのアルトビア―は飲み心地も色も英国のエールと瓜二つである。ここからライン川を少し上ったケルンにはケルシュ(Kölschbier、そのものズバリケルン産の意。)というビールがある。こちらもアルトと同じく上面発酵ビールなのだが、色は黄金淡色、味わいは軽やかで上品な感じがする。むしろ薄目のラガーに近い感覚のビールである。

DSCF7277.JPG
 再び南に戻り、ニュルンベルクの北に位置するバンベルクで醸造されるラオホビアー
(Rauchbier、煙ビールの意)。このビールは大麦麦芽を一度煙で焙ってから醸造しており、見た目は真っ黒でかつ鮭の燻製のような匂いが漂う不思議なビールである。ただ一度口に運ぶと驚くことに匂いが吹き飛び、濃厚で甘い味わいが口に広がる。意外にも苦味がほとんどないのが面白い。


 以上は比較的日本でもよく知られた種類のビールだが、もちろんこれ以外にも様々な種類のビールがある。書き始めるとキリがないので、ビールに関してはまた別の機会に改めて紹介することにしたい。


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HN:
Ein Japaner
性別:
男性
職業:
趣味:
読書、旅行
自己紹介:
三度の飯より政治談議が好きな30間近の不平分子。播州の片田舎出身。司馬遼太郎の熱狂的愛読者で歴史好き。ドイツ滞在経験があり、大のビール党。
[12/16 abuja]
[02/16 einjapaner]
[02/09 支那通見習]
[10/30 支那通見習]
[06/21 einjapaner]

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