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望雲録

のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

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S・A閣下のベルリン(2)

 欧州への留学生派遣は明治以降に始まった話ではなく、すでに幕末より幕府や各藩は様々な形で子弟を海外に送り出していた。しかしこうした草創期の留学先としてはアメリカ、イギリス、フランスが主要で、まだドイツ(プロイセン)の重要性は一般に知られてはいなかった。
 その中で日本とドイツを最初に結びつけたのは「医学」であった。ペリー来航直後、幕府は江戸時代を通じて関係の深かったオランダに近代的海軍創設のための援助を依頼する。一八五五年、海軍伝習所が長崎に設置され、オランダ教授陣による軍学講義が開始される。その一環として医学の伝習が行われるのだが、次第に聴講生達は講義に使用される教科書がほとんどドイツ医学書の翻訳であることを知り、ドイツ医学の先進性に気づき始める。

 青木がドイツの重要性を認識したのも和蘭医学を通じてである。青木はもともと長州藩蘭方医三浦玄仲の長男として生まれ、後継ぎとして医学蘭学の素養を仕込まれるが、年来より「何とかして国家に益する学問、即ち、政治に関係ある学問を修め、漸次政治に参与すべき位置を得ん」との志を持っていた。
 青木は幕末の激動の長州藩の中にあって蘭学の勉強を進め、やがて萩の蘭方医青木家の養子に迎えられる。青木家は藩医学校の教頭を務める名門であった。こうした蘭学修行の過程の中で大村益次郎など藩要人の知遇を得、留学に向けた足掛かりを作っていくことになる。

 勉強が進むにつれ、国内で西洋知識を修めることの限界を悟り始めた青木は欧州留学の希望を強く抱くようになる。そして彼は当時では極めて異例なことにプロイセン留学にこだわったのである。

「当時我国に於ては英・仏・米三国の名最も人耳に熟せしが故に、此の三国に留学するは邦人の見て以て首肯するところなるも、普国に留学するがごときは世人太だ之を奇怪としたり。しかれども予が多数人士の意向に反し、敢て普魯西行の留学を決定し、併せて政府の許可を請求したるには重大な理由あり。即ち、従来予の閲読せし和蘭医書は大半独人の著述を翻訳せしものなるのみならず、予は某蘭書中の一項に於て、凡そ学問に於ては能く独逸の右に出づるものなしとの数語を読みたる事あり。此等の証左に拠て推測するに、研究最も困難なる医学にして斯く著しく発達し、蘭人仰ぎて以て其の師と尊崇する普魯西国に於ては、其の他の学科も亦た必ず他国に卓越せるものあるべく、殊に一千八百六十六年の普墺戦役に勝利を博し、目下旭日昇天の勢ある普国に遊ぶは、自己平生の目的たる政法の学を修むるに最も適当なりと思考せしがためなり。」(『青木周蔵自伝』)

 情報も前例も乏しい当時の状況で、北辺の新興国プロイセンへの留学を断行するのは容易でなかったろう。何しろこの時点ではまだドイツ帝国すら成立していない。結果としてこの「賭け」は「成功」し、青木の着眼の確かさが証明されることになるのだが、後年このくだりを書きながら青木は内心得意だったに違いない。

 桂小五郎など要路への働きかけを経て彼の念願が実現したのは、戊辰の戦禍未ださめやらぬ明治元年(一八六八)十月のことである。青木周蔵、二十六歳の秋であった。

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三度の飯より政治談議が好きな30間近の不平分子。播州の片田舎出身。司馬遼太郎の熱狂的愛読者で歴史好き。ドイツ滞在経験があり、大のビール党。
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