のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
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ドイツに留学した日本人の中で最も著名なのは間違いなく森鴎外だろうが、彼がベルリンに到着した直後、時の駐独公使S・Aなる人物に挨拶しに行った話が手記『大発見』に記されている(tamnyさん、教えてくれてありがとうございます)。
ちょっと長くなるが、軽みのある実に見事な文章であり、時代の雰囲気をよく伝えてくれるので、引用したい。
公使館はフオス町七番地にあつた。帝国日本の公使館といふのだから、少くも一本立《だち》の家で、塀《へい》もあるだらう、門もあるだらうなどと想像してゐたところが往つて見ると大違である。スウテレンには靴屋の看板が掛かつてゐる。その上がパルテルである。戸口に個人の表札が打ち附けてある。今一つ階段を上る。そこが公使館であつた。這入《はい》つて見れば狭くはない。却《かへ》つて広過ぎて、がらんとしてゐるといふやうな感じのする住ひであつた。
若い外交官なのだらう。モオニングを着た男が応接する。椋鳥は見慣れてゐるのではあらうが、なんにしろ舞踏の稽古《けいこ》をした人間とばかり交際してゐて、国から出たばかりの人間を見ると、お辞儀のしやうからして変だから、好い心持はしないに違ない。なんだか穢《きたな》い物を扱ふやうに扱ふのが、こつちにも知れる。名刺を受け取つて奥の方へ往つて、暫くして出て来た。
「公使がお逢になりますから、こちらへ。」
僕は附いて行つた。モオニングの男が或る部屋の戸をこつ/\と叩く。
「ヘライン。」
恐ろしいバスの声が戸の内から響く。モオニングの男は戸の握りに手を掛けて開く。一歩下《さが》つて、僕に手真似《てきね》で這入れと相図《あひづ》をする。僕が這入ると、跡から戸を締めて、自分は詰所に帰つた。
大きな室である。様式はルネツサンスである。僕は大きな為事机の前に立つて、当時の公使S.A.閣下ど向き合つた。公使は肘《ひぢ》を持たせるやうに出来てゐる大きな椅子《いす》に、ゆつたりと掛けてゐる。日本人にしては、かなり大男である。色の真黒な長顔の額が、深く左右に抜け上がつてゐる。胡麻塩《ごましほ》の類髫《ほおひげ》が一握程《ひとにぎりほど》垂れてゐる。独逸婦人を奥さんにしてをられるとかふことだから、所謂《いはゆる》ハイカラアの人だらうと思つたところが、大当違《おほあてちがひ》で、頗《すこぶ》る蛮風のある先生である。突然この大きな机の前の大きな人物の前に出て、椋鳥の心の臓は、歛《をさ》めたる翼の下で鼓勘の速度を加へたのである。
「旧藩主の伯爵が、閣下にお目に掛つたら、宜《よろ》しく申上げるやうにと、申す事でござりました。」
「うむ。伯爵も近い内に来られるといふではないか。」
「さやうでござります。何《いづ》れお世話にならなければならんと申されました。」
「君は何をしに来た。」
「衛生学を修めて来いといふことでござります。」
「なに衛生学だ。馬鹿な事をいひ付けたものだ。足の親指と二番目の指との間に縄《なは》を挾《はさ》んで歩いてゐて、人の前で鼻糞《はなくそ》をほじる国民に衛生も何もあるものか。まあ、学問は大概にして、ちつと欧羅巴人がどんな生活をしてゐるか、見て行くが宜しい。」
このS・A閣下なる人物はのちの駐英大使、青木周蔵である。日本史の文脈では第一次条約改正交渉で英国と交渉した外務大臣だったこともありイギリス通のイメージが強いが、実は留学生・外交官としてベルリンに20年以上滞在しており、生粋のプロイセン信奉者であった。青木はいわば明治日本のドイツ留学第一期生にあたる。普仏戦争以前、まだ日本では実態のよく知られていなかった新興国プロイセンの重要性をいち早く認識し、ベルリンを訪れる政府要人にプロイセンの近代国家モデルとしての意義を熱心に説き、同じ長州閥の山県有朋や木戸孝允に大きな影響を与えた。戦前日本のドイツ傾斜に結果として最も大きな役割を果たした人物の一人である。
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無題
無題
>無題
へラインはHerein、「入ってこい」って意味です。何でそう言ってるかは…何でですかね。ちょっと気取ってるんでしょうか。