のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
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街中で大きなくしゃみをする。どこからともなくGesundheit!(ゲズンドハイト!)の声が投げかけられてくる。Danke!(ダンケ!)と大きな声で返す。Gesundheitとは「お大事に!」の意で、ドイツではごく一般的な習慣である。
昔見たジェームズ・ディーン主演の映画『理由なき反抗』(もちろん舞台はアメリカ)で、ヒロインが劇場でくしゃみをした同級生にGesundheit!と声をかける場面があったのを覚えているが、それほどにこのドイツの習慣は広く世界に知られているらしい。人情味を感じさせる習慣で、私は好感をもっている。
同じ鼻をめぐる習慣でも、少しギョッとさせられるのが、こちらの人は所かまわず鼻をかむ、ということである。食堂であろうが講堂であろうが図書館であろうが、食事中であろうが授業中であろうが勉強中であろうが、とにかく大きな音を立てて平然と鼻をかむ。この習慣はドイツだけではなく欧米諸国一般の習慣だと聞いたことがあるが、若い女性に面前で堂々とこれをやってのけられると、彼我を隔てる文化の壁の高さを感じずにはいられなくなる。
ただこの習慣には裏面がある。
ある日、図書館で勉強しているとどこからともなくティッシュが放り投げられてきた。風邪をひいて鼻の調子が悪い時である。といっても鼻をかむほどではないし、日本人の自分には図書館のど真ん中で大きな音をたてて鼻をかむ度胸はないので、Danke!と言ってそのまま返しておいた。親切の割には文字通り「投げて」きたし、当人の視線も少し厳しいように感じられたのだが、ドイツ人はこういう(不器用で)小さな親切を躊躇しない国民だ、という理解があったので、それほど気にすることはなかった。
しかし同じようなことが3回ほど続いて、さすがに変だと思った。ドイツ人はまあ親切な方だが、この頻度は親切の枠を少しばかり超えている。その時ふとある考えが頭をよぎって、しばらく耳を澄まして周りの様子をうかがってみた。
「鼻をすする音」が全く聞こえないのである。
勢いよく鼻をかむ連中はそこかしこにいるのだが、不思議なほど鼻をすする人がいない。
そう、ここでは「鼻をすする」ことがタブーだったのである。それに気がつかずに鼻をブスブスやっていた私に彼らは恐らくは非難の意をこめてティッシュを投げつけたていたのだろう。渡航して一年近くになるのに基本的なマナーに気づいていなかった不覚を反省した。以来人前では鼻をすすらないよう特に注意している。
確かに鼻水を鼻の中に引っ張り戻すという行為は、考えようによっては不潔で不衛生であり、きちんと鼻をかんで出しきってしまうのが正しい、それを躊躇する方がおかしい、というのは筋が通った理屈である。些少な例だが、文化習慣は一部だけ取り出してみるといかにも奇妙だが、裏面を知り全体を見ればある程度合理的で納得がいくようにできているものだ、ということをしみじみと実感させられた事件であった。それ以来、幾分鼻をかむ行為も気にならなくなった気がする。
ただそれでも、鼻をかんだチリ紙を無造作にポケットに突っ込んで、しかもそれを二度三度と使いまわしている学生の姿を目にさせられると、やはり自分は異国にいるのだ、と溜息をつかざるを得ない。いくらこちらで問題ない習慣だと言っても、自分はできる限り人前で鼻はかみたくない。
ドイツ人が議論好きだというのは決して偏見ではない。議論のために時間を投入することを惜しむことはなく、ドイツ語が中途半端な外国人が相手でも、繰り返し手を替え品を替え言葉を通じて自分の主張を理解させようとする。その粘り強さには時に自分のような日本人は辟易させられることが多い。徹底的に議論して論点をつぶし、曖昧さを排し、その上で妥協し、紙に落とす。しかる上で一気呵成に執行する。これがドイツ人の流儀である。
制定者たちがそこまで考えていたかどうかは不明だが、連立交渉、合意文書の作成、それに基づいた政権運営という政治制度は、ドイツ人の気質によくマッチしているように見える。5党制の下のドイツ政治の未来についても、議論を通じた交渉と妥協を何より得意とするドイツ人気質に鑑みれば、それほど悲観的になる必要はないのかもしれない。
ドイツ人のドイツ基本法に対する評価は概して非常に高い。もちろんこれは狭義の政治制度のみならず、強力な司法のチェック機能、戦う民主主義、連邦制など諸要素の総合的な評価によるものだが、衝撃的な敗戦と占領軍による分割統治という状況から発し、構造的に分権的な要素を内包している戦後ドイツ政治の中で、国家が政治的に分裂せず高度な安定性を確保しえたことに関しては、この政治制度が大きく貢献しているのは間違いない。
ドイツ基本法は一つの成功モデルとして、冷戦後の中東欧諸国をはじめ世界各国の憲法に多大な影響を与え、頻繁に参照・模倣されている。明確な設計思想とそれに起因する論理性とが、モデルとしての価値を高めているのであろう。
この基本法はドイツ人の気質に適合的である点を超えて、他国にも適用可能な一つの普遍的な民主主義のモデルを提示しているわけである。ドイツ人が誇りに思うのも無理はない。
歴史からの教訓、政治文化との整合性、明確な理念と設計。理念としての平和主義が突出している我が国の憲法は、現実に耐えうる一つの強靭な制度としての民主主義のモデルを、果たしてどこまで提示できているだろうか。その要たるべき議会政治の混沌とした現状が否応なく頭をよぎる。日本国憲法が他国に模範として導入されたという話は、寡聞にして聞かない。
前述したとおり、ドイツでは連邦議会議員の任期は通常4年であり、また連邦参議院は民選ではないので、日本に比べると国政選挙の機会は少ない。一方、この国では地方でキャリアを積んだ政治家がいきなり中央政界に閣僚や首相候補といったハイレベルで乗り込むことが多いので、16ある各州の議会政治の動向も大きく注目される。そのため州議会選挙も全国レベルで高い関心を集めることになる。
その中で今年2月末に行われたハンブルク州議会選挙は、連立という文脈から見ても非常に面白い結果となった。
ハンブルク(位置は右参照)は一つの市にすぎないが、法的には16ある連邦州の一つである。選挙では予測通り与党CDUが第一党の座を確保したが、単独多数に達することができなかった。一方で潜在的な連立パートナーであるFDPは4.8%の得票とわずかに5%に届かず議席を確保できず、代わりに左翼党が6.4%を獲得し進出に成功した。結果、多数与党の構築にはCDUがSPD、緑の党、左翼党のいずれかと連立を余儀なくされるという状況になった。
CDUにとり左翼党との連立は論外だが、緑の党との連立に関しては近年その可能性がクローズアップされているところであった。「CDUで経済、緑の党で環境」という組み合わせを求める声は世論調査でも意外と人気があったこともあり、結果、CDUはSPDとの大連立ではなく緑の党との交渉を選び、4月に連立合意が成立する。州レベルで初の黒緑(Schwarz-Grüne)連合の誕生であった。
この事件は今後のドイツ政治にとり大きな意味を持つ。というのは、従来CDU/CSUの連立パートナーはFDPに限られており、緑の党、FDP、場合によっては左翼党と多様な連立の選択肢を持つSPDと比べ、5党システムの下では構造的に不利な状況に置かれていたからである。
SPDの側はすでに州議会でSPDー左翼党の赤赤連合、それに緑の党を加えた赤赤緑連合(ベルリンなど)、SPDー緑の党ーFDPの信号連合(かつてのブレーメンなど)を実現させており、着実に連立のレパートリーを増やして来た経緯がある。
そんな中、今回の連立が順調な成果を上げれば、他州や連邦レベルでも緑の党とCDU/CSUの連立の可能性が出てくる。FDPも合わせたジャマイカ連合の実現も視野に入ってくる。その意味で今回の黒緑連合の成立はCDU/CSUの政治的選択肢が大幅に拡大したことを示しているのである。(右は連立合意書を手にする両党の州議会幹部。カバーが黒と緑の組み合わせになっている。)
ドイツは州政治の独立性が高いので、今回の事態がすぐに連邦レベルの大連立政権に波及するわけではない。しかし今後は選挙で多数を確保することのみならず、選挙後に有利な形で連立政権を構築する交渉力が一層要請されてくると思われる。選択肢が増えることは、方程式がより高次になり解が増大することと同義なのである。
ドイツにおける大連立(Die große Koalition) はキリスト教民主党/社会党(CDU/CSU)と社会民主党(SPD)による連立政権を指す。2005年9月18日の連邦議会選の結果、CDU首班メルケルを首相とするドイツ史上二度目の大連立政権が誕生したことについては、当時の日本でも比較的大きく報道された。
ちなみにこの選挙は先に述べた「信任投票の否決」の禁じ手を時のシュレーダー首相(右)が敢行したことによる連邦議会の任期前解散によって実施された。当時のシュレーダー政権の構成はいわゆるSPDと緑の党の連立政権であり、選挙戦はこの赤緑連合(Rot-Grün)とCDU/CSUと自由民主党(FDP)の連合である黒黄連合(Schwarz-Gelb)の衝突という形をとった。ちなみに事前に連立構想を明確にして選挙戦を戦うことはこの国では珍しくないが、この場合はもちろん事後の交渉の余地が狭まる。この選挙ではFDPがCDU/CSUとの連立を目指すことを事前に明確にしていたが、緑の党は連立の可能性につき明言を避けていた。
選挙結果はSPDが逆風の中予想以上に健闘して222議席、CDU/CSUが伸び悩んで226議席と極めて拮抗したものとなり、選挙後にシュレーダーもメルケルも政権構築への意欲を示した。さらに注目すべきは左翼党(Die Linke)が5%条項の壁を突破し、54議席を獲得したことである。前述したとおり、この政党は旧東ドイツの独裁政党の系譜をひき、かつSPDからの造反組も含まれるなどの事情もあって、CDU/CSU、SPDのいずれからも連立の交渉相手としては排除されていた。結果、伝統的な「規模の異なる二政党による連立」では過半数を構築できず、3政党による連立か大連立かに選択肢は絞られることとなったのである。
選挙からひと月が経過し、3政党による連立構想がいずれも挫折した後、10月にCDU党首メルケル、CSU党首シュトイバー、首相シュレーダー及びSPD党首ミュンテフェリングの四者会談が行われた。この会談は「腹の探り合い会談(Sondierungsgespräch)」などと称され、他者を排し首相官邸において内輪だけで行われた。会談翌日の合同記者会見で、「メルケル首相」の下での連立に向け交渉を開始する旨の首脳間合意がなされたとの発表がなされた。ここに大連立への道筋が初めて明確に示されたことになる。
しかしこれで事態が丸くおさまったわけではなく、戦線は党内説得に移行することになる。とりわけSPD内ではこの合意に対する反発が強く、これを受けてミュンタフェリングは総裁職を辞任することになる。(左は会談後の記者会見、シュトイバーCSU党首、メルケルCDU党首)
党内での対立を抱えつつ、一方では組閣後の政策の擦り合わせが行われた。26日間もの協議を経て、11月18日、両会派間で連立合意(Koalitionsvertrag)が結ばれ公開された。「共にドイツのために」と題されたこの合意文書はあらゆる政策分野を網羅し、実に130ページに及ぶ労作である。首班のサインが入ったこの文書はもちろん単なる紙切れでなく、現在でも政府内の意見対立に際ししばしば引用される。(左は調印式。3党の党首。)
紆余曲折を経て、11月22日、ようやく連邦議会においてメルケル首相が誕生した。予想通り多くの造反議員のため、賛成票の数は397票と、両会派総議席数の448を大幅に割り込んでいた。
ただともかくも、バランスの悪い選挙結果を克服して、政権は成立した。順調な船出とはいえないが、選挙後足かけ2か月にわたる神経戦の幕が引かれ、難解な多元方程式の解が一つ、導かれたのである。
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