のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
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最近、ちょっと忙しいです。
最初のうちは自分がやってる仕事が新聞にでると「おー」とか思ってましたが、新聞にでるということは当然それなりの対応が求められるわけで、またそれを読んで関心を持たれたいろんな方から問い合わせがあったり呼び出しがあったりするわけで、仕事の量というのはまさしく指数関数的に増大していくわけです。そのうち新聞記事を見つけると「またかー」と悲鳴を上げるようになり、それより忙しくなるとそもそも記事を全てフォローする暇もなく、その関連の仕事をやっているにも関わらずメディアどころか主要六紙の動向すら全く把握できていないという状況に陥ります。
いや、以前は世間の注目を集める仕事をするのはきっと楽しいだろうと思ってましたが、で、実際確かに楽しくて、学ぶところは非常に大きいんですが、2か月3か月とそんな状態が続くとさすがに少し辟易してきます。実際自分がやっているのは、その仕事の末端の末端の雑用係なのでなおさら。。。
うちの業界では「月の残業300時間経験して一人前」みたいなことが言われますが、その2/3にも達していないのに、すでに「そろそろ限界かも」と感じてしまいます。何より「寝たい」わけですが、休日うっかり思いっきり寝てしまうと、20時間コースとかになってかえって疲れがたまったりするわけで、やはり規則正しい生活ができないとどれだけトータルの睡眠時間を平準化しても人間疲れます。「体が資本」という金言を噛みしめている今日この頃です。
でもまあ、終わってみると(いつ終わるのか見当つきませんが)、きっといい思い出になるんでしょう。将来年取って部下相手に飲み語りをする時には、きっと今やってる仕事のことを嬉しそうに話すようになるんでしょう。鬱陶しいことこの上ない上司かもしれませんが。。。
そう信じて、今日もこれから職場に向かいます。
私は2007年の夏から2009年の夏まで日本を離れていたので、正月は2年振りということになる。
別に年末年始、何をしたというわけでもなく、実家で炬燵にあたってゴロゴロしていただけなのだが、それでもこの国の正月の清冽な空気は、なまぬるい我が家の座敷にもどこからか隙間を見つけて入り込んでくるようで、年を越すと去年一杯に降り積もった心の垢が多少なりとも落ちた気持ちにさせられる。まことに不思議というほかない。
「『お若くなって、おめでとうございます』というあいさつは、古くは、民衆のあいだで、正月に交わされていた。正月になれば一つ老いが重なるはずだのに、そこにイデアが設けられて、年があらたまるとともに逆に人も自然も若くなるというのである。」
(司馬遼太郎『この国のかたち 五』「神道(三)」)
正月には、他にも若水、若松、若緑など、こうした「若さの再生」にちなむ言葉が多い。年が明けさえすれば、また去年とは異なる新しい始まりが切られる。私自身、去年は仕事の面でもプライベートの面でも色々考えさせられることが多い年であったが、もやもやした感情を一旦リセットして新しい気持ちで事に臨んでいくことができる契機が一年に一度与えられるというのは、やはりありがたいものである。
一方で、年を越しても変わらないものがある。
去年今年 貫く棒の ごときもの(虚子)
年が新しくなるからといって、それはもちろん積み上げた去年と言う一年全てを捨て去ってしまうということではない。引き継ぐべき、貫きとおすべきものは、精神のありようという抽象的なものから日々の習慣や積み残した仕事上の課題という具体的事象にいたるまで、実に多く存在する。
私はこれらの一見矛盾する考え方が、二つながらに好きである。いずれも年が変わることを契機にして、自分の越し方行く末を再考するよすがを与えてくれる。一年の塵を落とし棚卸をするための気分と時間を、正月は与えてくれる。
今年の年末年始は久し振りに実家に長逗留したが、その間、東京に来る前の自分について、少しばかり再確認をしてみた。高校まで自分が書いた絵、文章、当時の顔写真、友人たち、読んでいた本、マンガ、聞いていた音楽。母親に自分の子供時代の話や、母方の祖父や曾祖父の人となりと自分との関わりについても、あらためていろいろ話してもらった。
昔の自分を、改めて自分の記憶以外の資料から再構築してみると、意外なところで自分を規定している性質を再発見したり、克服したと思っていた感情が別の形でおかしな芽を出していたのではないかという事実に気がついたりで、想定以上に新しい発見がいろいろとあった。
無論ポジティヴなものばかりではない。正直にいえばむしろその逆の方が多いのがこういう作業の常なのだが、全体として自分が確実に前に進んでいることは実感されたし、また新しく、前を向いて歩くための課題が割と明らかになったという意味では、この上なく有益だった。
焦らずおごらず、今年一年、大事に使っていきたいと思う次第。
ということで、今年もなにとぞよろしくお願いいたします。
Kから「明日の朝夜行バスで新宿につくから昼飯を食べよう」というメールが唐突に届いたのは、土曜の昼下がりのことだった。
Kは、中高生時代からの私の友人である。正確にいえば小学生の頃からの知り合いである。
私たちは当時、地元でスパルタ教育で有名だった同じ進学塾に通っていた。小学生のころの私たちはまだお互いの顔を知っていたくらいで、特段仲が良かったということではない。ただKの成績はほとんどいつもトップだったため、同じ塾の誰もが彼のことを知っていた。と言ってもKは特段目立つ男では全くなく、どちらかと言えば気の弱そうな、静かな優等生だった。私などは彼とは正反対の目立ちたがり屋で、いつも先生達の手を煩わせていたように思う。子供だった私は実に単純に毎度のテストの成績に一喜一憂していて、たまにKより点数が上だったりすると無邪気にはしゃいだ。
Kと親しくなったのは、中高で同じ将棋部に入ってからのことである。当時同じ学年には真面目な部員がKと私を含めて3人いた。私たちの将棋はそれぞれに個性が違っていて今から考えれば良い組み合わせだったが、実力はKが頭一つ抜けていた。
終盤になるにつれてあらが目立ちポカを繰り返す大雑把な私の将棋に比べ、Kの将棋は如何にも才気走っており、後半になるほど尻上がりに鋭さを増した。定跡や戦法の研究という点ではさほどこだわりを見せなかったが、実戦で通用するのは大抵彼の方で、結局3人の中で全国まで行けたのもKだけだった。将棋という小さな世界の話でありながら、恐らくこの時期に、私ははじめて「努力で越えられない何かがこの世には存在する」という、憂鬱な予感を肌身に感じさせられたのだと思う。
理系だったKはその後京都の大学に進み、建築を専攻に選んだ。私は東京の大学に進み、法律や政治を学んだ。文系理系と専門に重なりがなかったことは私のKに対する劣等感を育てずに済んだ。何かの拍子で大学時代の後半ごろから再び連絡を取るようになり、私がドイツに行くまでの間、年末の帰省の折には京都の彼の下宿に転がり込んで、2、3日暮れの古都の空気を吸ってから帰郷するというのが習慣になった。
Kの大学での研究は順調なようだった。Kの教授は彼の才能を高く評価していた。Kの作成した研究模型やプレゼン資料を見せてもらう機会もあったが、素人目にも垢ぬけたセンスを感じさせるものが多かった。その研究はのちに何かのコンクールで賞をもらった。京都という駘蕩とした雰囲気の漂う街でぼんやりと全く畑の違う学芸の話題に花を咲かせるのは、堅い勉強と実務に緊張していた頭と精神を緩ませる、少しデカダンスな瞬間だった。
Kはその後大学院まで進んだあと、東京の小さな建築事務所に就職した。だから彼が「夜行で東京に来る」というメールを送ってきた時、おや、と思った。彼が就職した直後、私はドイツに渡り、私が向こうにいる間は特段やり取りをしていなかったため、お互い事情に疎くなっていた。夏に帰国した際、彼にもその旨を知らせておいたのだが、会うのは今回がはじめてで、実に3年ぶりということになる。
久し振りに見るKは、相変わらずひょうひょうとしていた。私たちは雑踏を避けて西新宿の高層ビル群の方へ歩いて行き、とあるビルの最上階に上って、東京を見下ろせるすし屋に入った。ビールを飲んだ後、自然と仕事の話になった。Kは淡々と、むしろ少し愉快そうに、今の身の上を語った。
彼の就職した事務所は、この不況の煽りで資金繰りに失敗し、1年ほどで潰れたのだという。
Kの父は地元では知られた企業の社長をやっていたが、その会社も彼が大学生の時に倒産した。そのため彼は大学時代経済的に厳しい生活を送ることになっていた。毎度泊めてもらう彼の下宿は中心部への便が悪く、築30年の古びたアパートだった。
しかしその事務所が民事再生法を申請する顛末を語るKは、意外にさばさばとしていた。
事務所がつぶれた後、彼は京都の研究室に戻った。学費は奨学金と仕事で稼いでいるという。仕事と言うのはウェブデザイナーということで、前の事務所で培った人脈とスキルで月に10万程度は稼ぎがあるということだった。今は気の合う仲間と一戸建てを6人で借りて共同生活を営んでいるという。
私の方と言えばさほどドラマチックな話もできるはずもなく、財政赤字がどうの、行政改革がこうの、政治主導がどうのこうのと、Kの知識と関心が薄い分野であることをいいことに、生半可な抽象論を振り回して放言した。
ひとしきり話した後、場所を変えてコーヒーでも飲もうということになって、私たちはまた人気の少ない高層ビルの麓をぶらぶらと歩いた。とりとめもなく話題は将棋や旧友の消息に移った。懐かしい戦法や友人の名前が中空に浮かんではすぐに消えた。
道すがら、私がドイツにいる間にできたロケット型のコクーンタワーを指差して、「同じような建物がロンドンにもあったよな」と言うと、「こっちのは構造とデザインが分離してるから評判悪いんだよ」と、Kはさっくりと答えた。
とあるビルのふもとに見つけた喫茶店に向かうと、面白いことにたまたまその隣のフロアを借りて、全国の建築学部の卒業制作コンクールの展示イベントが行われていた。
ぶらぶらと展示されている卒業制作を眺めているKに、私はあれはいい、これはだめと、横から口軽く素人批評を投げかけて見た。Kはその度に軽く笑いながら、しかし制作物から目を離さずに、適当に私の答えをあしらった。
ふと私の脳裏に「歳月」という言葉が浮かんだ。私はぼんやりとつぶやいた。
「おれら、もう15年のつきあいなんやなあ」
私の真意を知ってか知らずか、Kは一瞬間をおいてから、やはりぼんやりとつぶやいた。
「そうやなあ」
どちらからともなく、失笑とも自嘲ともとれる笑いが噴き出した。
気がつけば優等生だったKよりも、気性でも成績でも棋風でも波が激しかった私の方が、ずっと単純で安定した人生を歩むようになっていた。ただ私たちにとって滑稽だったのは、そういう人生の変転そのものというよりも、それを感じることができるまでにいつの間にか重ねてしまった15年という歳月の、意外なほどカラリとした佇まいの方であった。
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