これらの事件を考えるうち、私は「雇用や賃金は企業から提供されるもの(少なくとも、企業が主導するもの)」と無意識に頭のどこかで考えていた自分に気がついた。そういう観念は少なくともこの国ではあまり一般的ではないらしい。
職と報酬は揺るぎなき「権利」であり、それを制限したり剥奪したりする企業は社会的に非難され制裁を受けてしかるべきだという考え方、それがどうもドイツ流の職業観であるように思える。さらに言えば、こちらでは企業=経営者というニュアンスが非常に強く、労働者の企業への帰属心が想像以上に希薄なのではないかと感じた。ここでは労働者は労働者としての権利の上に座す自律的存在となり、むしろ同じ権利を束として交渉力を増すために横に連帯するわけである。
普通、企業が労使を包摂する概念と捉えられる日本とは、この点どうも感覚的な違いがあるように思われる。日本の労働者が労使交渉に際して自社製品をゴミ箱に捨ててアピールする姿などは想像しにくい。
さらに印象的なのはこうした労使紛争に際して政治のハイレベルでの介入が目立つことである。日本では責任ある政治家が特定企業製品のボイコットを国民に呼びかけるなど、想像を絶する光景であろう。これは現在の大連立与党の一角、SPD(社会民主党)が労働組合と極めて密接な関係にあることと無縁ではないだろうが、こうした状況下で政府の市場介入への躊躇が全くないことは、底流に流れる経済政策思想の根本的な相違が浮き出ているように思えて興味深い。
過酷な労働条件や失業の危機に直面して、抵抗、反対運動が生じるのは洋の東西を問わずごく当然のことである。ただその手法や展開には各々の労働観が否応なく示されるものだと思う。日本では久しく労働紛争が巷間を賑わすことはない。労使の問題は共同体としての企業の内部で協調的に、暗黙的に解決される。そういう擬制がかなりのところまで通用している。「はじめに企業ありき」であって「はじめに権利ありき」ではない。
その点、ドイツは何と言ってもマルクスの故郷である。いやむしろドイツの特殊性というよりも、権利が権利としてひとり立ちせずに企業社会にくるまれてしまっている日本社会のあり方のほうが、先進資本主義国の中では際立って特殊なのかも知れない。
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