日本ではこのようなラディカルな色使いの事物が一般市民の日常生活に大量に配置されていることは、まずないと言ってよいだろう(時折輸入品としてもの珍しさの故に一定の地位を獲得することはあろうが)。この国では繊細な日本人なら発狂してしまうのではないかと思えるほど、色に対する観念が根本的に異なるように思われるのである。
それでも時間というのは大したもので、当初は違和感を覚えたこの色使いも、3か月も住んでいるうちにそれほど気にならなくなってきた。むしろ秋口に差し掛かり天候が崩れがちな日が続いたりした時などは、こうした原色の刺激が目に入ることで神経が活性化され、ともすれば沈みがちなテンションが高められるように感ぜられることもしばしばである。なるほど日本の蒸し暑く厳しい夏の日差しを想像すれば、こうした原色は目にうるさくて仕方ないだろうと思うが、暗く長い冬を過ごす北欧の人々にとっては、色の与える刺激は想像以上に積極的な意味を持っているのかもしれない。
私はドイツと日本しか知らない人間なので、他の国と比較することはできないが、この色彩感覚の違いを最も端的に説明できるのはやはり光という絶対的な気候条件ではないかと思う。
「青騎士」の理論的指導者であったカンディンスキーは、その著書『芸術における精神的なものについて』の中で「形式と色彩の自立、物自体からの独立」を掲げていた。対象から離れて人間の精神を刺激するものは何かを突き詰めた時、ロシア出身のこの画家が光、そしてその最もラディカルな表現である原色(それも三原色)の効果に着目したことは想像に難くない(左、右は彼の作品)。
あまりに短絡的な推察にすぎるかもしれないが、こうした芸術が生まれ広く受け入れられる土壌には、この地域の人々の光というものに対する深い憧憬があるのではないか、と思うのである。光というものがもたらす価値観の相違は、想像以上に大きなものがあるのではないかと思っている。 PR
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