日本語を勉強しているドイツ人との交流会で、「日本を訪れた時に受けたカルチャー・ショック」が話題になった。皆めいめいの意見を述べ、それぞれに興味深かったが、ある若いドイツ人の素朴な発言に、私は盲点を鋭く突かれた思いがした。
「日本はどこにいっても山がある。それが自分には大変驚きだった。」
日本は島国であるが、同時に山国である。国土の75%を山地が占め、山に迫られた狭い盆地、平地を最大限に活用すべく、丹精をこめて生産性の高い耕地田地を築き上げ、その傍に肩を寄せ合わせながら文明を形成してきた歴史がある。実際日本では平地面積に比して不釣り合いに巨大な人口を養うため、特に農村において涙ぐましい努力が重ねられてきた。高知檮原町の石垣造りの千枚田や、新潟亀田郷の干拓にまつわる風景はその証左である(この点については司馬遼太郎『街道をゆく9』『同27』が面白い)。自分の出身地は播州平野になるが、平野と言ってもつまりは山と海のはざまで、北を臨めば山々が迫り、南からは今にも汐のかおりが漂ってきそうな、そんな慎ましさ、窮屈さがあった。多かれ少なかれ、日本の村落の大多数はこうした物理的、精神的な空間の制約の下に成立したといってよいだろう。
どの民族にもおそらくその固有の「原風景」というものがあると思うが、われわれ日本人にとっての典型的な原風景とは、決して地平線果てなく続く平原ではない。峻険すぎない青々とした山あいに清らかな小川が流れ、その脇をうるわしく手入れされた田が彩るなかに、ところどころ茅葺屋根の農家が点在している、そういうイメージだと思う。山というものを抜きにした原風景というのは、ちょっと描けないのではなかろうか。
はっきりとした例外として真っ先に頭に浮かぶのが北海道で、おそらく日本で山のないまともな地平線を日常的に眺めることのできる唯一の地域であろう。そしてよく言われるようにこのような景観は非常に「西欧的」なわけである。休日などドイツの都市の郊外に出かけてみれば、1時間も経たないうちに市街が途切れ、なだらかな波を描く広大な牧草地と麦畑、そして森が続く。延々と続く。民家や集落は途切れ途切れ現われては消える。しかし視界の上半分には常に青い空が開けており、それが丘の稜線や教会の尖塔とはっきりとした境界を形づくっているわけで、背景として山らしい山が登場するのは南部や中部の一部の山間部に限られる。実際、ドイツは国土の85%が平野部なのである。
これがドイツ人にとっての典型的な原風景なのかも知れないーそう思ったとき、日独の文明の相違がくっきりと際立ってくるように思えた。とりわけ、日本という文明の特殊さが思われた。広大なフロンティアや圧倒的な自然の存在感に支配されていない原風景ーこれは日本人の精神性の重要な背景となっている要素ではなかろうか。世界的に見ても、こうしたなだらかな山々によって縮減された原風景を脳裏に焼きつけている民族はそれほど多くはないと思われる。
ところで日本にはもう一つ例外と言いうる地域がある。関東平野である。現在の東京で生活していて山の存在を感じることはまずない。別のドイツ人はこう語った。
「日本につくと空港から東京の中心部までずっと家があってビルが建っていた。それが驚きだった。」
関東平野はその唯一例外的な広大さゆえに、日本のあらゆる活力が行き先の失った濁流のように流れ込み集中し凝縮された地域となっている。こちらは山国日本のより物理的な本質である。いずれにせよ、アルプスの果てなき長大な裾野の上に、森と草原と空の極みを恣にする民族には、当然理解に多少の言葉を要することになろう。 PR
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