ただ一晩明けてスピーチの内容を吟味したドイツメディアの報道は、案外に皮肉っぽいものが多い。その多くはオバマ演説の「責任の共有」の下り―とりわけアフガニスタンへのドイツ国防軍増派要請を警戒して―に神経を尖らせていた。
またSpiegel誌のオンライン記事によれば、オバマ氏の周囲には常に米国メディアが貼り付いており、ドイツメディアに対する扱いが非常にぞんざいであったらしい。今回のオバマ氏の訪欧の第一目的が何より米国内向けに国際人としての箔付けをすることであったことを考えれば、米国メディアへの対応が最優先されたのは無理のないことだが、そうした態度は当然ながらドイツ人記者には不満だったのだろう。批判的な論調の背景にはそうした事情も幾分か反映されているように思う。(左はSpiegel紙の表紙。)
ただメディアの醒めた反応の根底にはベルリンという街を取り巻く状況の変化があると思う。現在のベルリンはドイツ最大の人口を誇るが、その構成は多様で、旧東独出身者はもちろん、諸外国から移民が大量に流入するドイツきっての国際都市となっている。中でもトルコ系住民の数は圧倒的で、すでに全ベルリン市民の四分の一から三分の一を占めるに至っているという。そのような状況で「西」ベルリンの「自由と民主主義」の勝利を称揚されても、人によっては時代錯誤に思うかも知れない。
オバマ演説で何度も引用された「大空輸作戦」の舞台であるTempelhof空港は現在でも一部の市民には伝説的な意味を持っており、市当局の老朽化と財政難に伴う閉鎖決定に対して、市民団体による反対運動が展開されていた。しかし今年4月に実施された住民投票の結果はあっけないもので、全有権者の2割しか閉鎖反対に票を入れなかった。はからずもベルリンの神話を守ろうとする人々が、すでにベルリン市民の大勢から浮いた存在になりつつあることが如実な形で示されたのである。米国によってこの街にかけられた自由と民主主義の砦という魔法は徐々にその力を失いつつある。一片の演説に酔いしれるには、今のベルリンには見据えねばならない現実的課題が山積している。(右は空港の敷地にある大空輸作戦記念碑。)
ベルリンでは今年3月から市の肝いりで"Be Berlin" という市民参加型の新しいイメージキャンペーンが大々的に展開されている。ベルリンで多様なバックグラウンドを背負い生活する市民たちが自身の生活や経歴をカメラの前で語り、それをつなぎ合わせていくというコンセプトで、そこで語られるのは自由や民主主義の理想ではなく、21世紀という新しい時代の只中で躍動するベルリンの素顔とそこに住まう生身の市民の姿である。(上はキャンペーンのポスター。)
冷戦終結からすでに20年近い。ベルリンもようやく運命の長い手を離れて、自分の足で立つことを模索しているのである。
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