のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
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同日の夜、テーゲル空港に着く。ドイツの土をはじめて踏む。
ベルリン。漢字表記では伯林と書く。人口およそ340万。言わずと知れたドイツ連邦共和国の首都である。小都市の多いドイツでは唯一圧倒的規模を有する大都市であり、一市のみで行政州としての地位を有する。欧州(EU)全体で見ても第二番目の人口数を有しており、名実ともに欧州の極をなす都である(下は熊をモチーフにした市の旗)。
ベルリンは19世紀後半にドイツ帝国が成立して以来、ドイツが常に欧州史の中心であったことから、一貫して国際政治の激動の渦中にあった。街中にもその激動の歴史を綴る歴史的遺産が数多く存在する。普仏戦争の勝利を記念して建造された塔であるジーゲス・ゾイレ、統一ドイツ実現を記念して創建され、第二次大戦で破壊されたままの姿を留めるカイザー・ヴィルヘルム教会などなど。しかし最も目を引くのはやはり「壁」に関わる遺産だ。
ベルリンにおける最も著名な建築物といえるブランデンブルク門は18世紀後半に建設された。プロイセン王家の栄光を象徴するこの門はベルリンの壁建設とともに東ベルリンの西端となり、同時にベルリンの壁をも象徴する存在となった。壁崩壊時にこの門を背景にして歓喜する市民の姿を記憶している人も多いだろう。ベルリンの壁自体は今はほぼきれいに取り除かれているが、統一後ビジネス街として急速に発展したポツダム広場などでは、解説板とともに壁の一部が残されている(右写真)。また東西ベルリン間の往来を管理していたチェックポイント(Checkpoint Charlie)は著名な観光スポットになっている。
ベルリンの壁は二層構造になっていて、その間は数十メートルの「無人地帯」が広がっていた。ポツダム広場を横切る大通りEberstrasseは、統一後その上に敷かれた道路である。記念碑的に切り出された壁の側に立ちながら、大通りを大量に行き交う車の流れを見ていると、冷戦が間違いなく歴史の1ページとなったことを実感させられる。
ベルリンは良しにつけ悪しきにつけ、世界の歴史の一画を担わされた街である。この街の名はスラブ語のberl(沼地、泥沼)に起源をもつと言われる。中世にハンザ同盟の自由都市として発達したが、15世紀にブランデンブルク選帝侯の居住都市とされ、その自治権を失った。結果としてはこの瞬間が運命の転機となった。この「沼地」自身もよもや自分が全世界の分断と再統合の舞台となるとは想像しなかっただろう。運命は人も街も同様に数奇である。
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COMMENT
無題
森鴎外ばりの留学体験記を期待してますよ(笑)
>ひらた
Re:>ひらた
無題
楽しみにしてます!私はこの二年間で、中国語にも英語にも「美しい中国語」、」「美しい英語」というものがあるということ、そして私がそれらを「書ける」ようになることは一生無理(多分美しさを「見分けられる」ようにはなれます、努力しだいで)ということに気づきました。それと同時に、「美しい日本語」については多分努力すればある程度は書けるようになるだろうということ、それにもかかわらずそのような努力を今までの人生の中で怠ってきたということにも気づきました。帰国後は貴君のブログと鴎外で日本語を勉強しなおしたいと思います。